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 開け放しの窓から強い風がはいりこんだ。乱れた黒髪を両耳の後ろへ流しつつ、ハンは顔を上げた。その仕草にカーグは年相応の女らしさを感じていた。
「ケイトママが死んで、パパはわたしを養子に迎えてくれたわ。欲しかった『ポルラム』の姓も手にはいった。パパとカーグとわたし、傍目には幸せな父親と兄妹に映ったかもしれないけれど……幻想だった」
 ハンは窓台に乗り上がると横の壁にもたれ、立てた膝を抱きかかえて座った。窓が開いているので、そこは三階の切り立った崖である。しかしカーグが「危ないから降りなさい」など注意することはなかった。彼はなにも言えなくなってしまったのだ。
 カーグがピーターの愛人になったのはピーターを阿片中毒にするためで、阿片中毒はピーターを殺すための手段、というのは結果論に過ぎない。カーグが用いた阿片はピーターの苦しみを取り除く手段だった。カーグがピーターを本気で、ハンと同じくらいに愛していることぐらい知っている。――言いわけなんて聞きたくない。
「ハンナ。僕を殺してくれ」
 賢いくせに優しさが仇となってカーグは弁解できずひっぱくしていた。ハンはカーグを慰めに今すぐ駆け寄りたかったが、耐えて顔を夕暮れに晒した。
「パパはあなたに夢中になって、わたしを放り捨ててしまった。そしてわたしの存在をことごとく否定するの。お酒の力を借りて、わたしを作ったことを後悔する。ユリエちゃん殺しを責められるよりもつらい仕打ちだったわ」
 あどけない顔に瞬くつぶらな瞳は、冷たい金属のような光を宿している。
「酒にかぶせるように阿片まで、使うべきじゃなかった。叔父の人格はことごとく崩壊してしまった。ごめんなさい、ハンナ。本当にごめんなさい」
 ハンを抱きしめる権利など自分にはないとカーグは思っているので、ハンに手が届くか届かないかの距離で立ち尽くしていた。ハンはカーグを極力見ないように努めた。目の当たりにすれば身が張り裂けてしまうから。
「阿片を欲しがるさまは飢えた獣のようだったわ。天才錬金術師の面影など消え失せてしまった。わたしを辱めるのは、パパではないなにかだった! これ以上の地獄がどこにあるの?」
 阿片中毒について言及すればするほど、カーグは責められ苦しんだ。カーグの声がまったく聞こえなくなり、ハンは不安に駆られて振り向いた。青い顔をしているけれど、まだなんとか立っていた。早く終わらせなければ、とハンは焦った。フローリングに降りて、石のようになっているかわいそうなカーグの胸を手のひらで突いた。
「パパがいなくなれば、わたしたちは幸せになれると信じていた。でも――」
「ザキルカさんが殺したんだろう?」
 かすれた声で弱々しくハンに訊ねるカーグが別人に思え、ハンは鳥肌が立った。ふたりとも薄々分かっていることだけど、ハンはどうしてもそれを口にできなかった。とてつもなく長い三秒の沈黙があった。
 答える代わりにハンはつまさき立ちになってカーグの唇にくちづけた。苦い味に胸は痛んだ。震えをおさえながら、そっと唇を離した。
「さようなら」
 鎮火された寒々しい空に向かってハンは「マルス!」と叫び、かつてカーグが飛び降りようとしてユリエが運び出されたその窓から身を投げた。
 我に返ったカーグは美しい顔を思いっきり歪ませてその場に泣き崩れた。

――わたしはカーグが欲しかっただけなのに。

 ペガーズのマルスがしなやかな翼をはためかせて降り立ったのは、ポルラム邸から飛んでほんの十五分の田園屋敷だった。横乗りの体勢から器用に着地したハンは、足首にまとわりつく裾を後ろ足で蹴った。
 灌木の迷路を抜けると、ラッパスイセンが人工池のほとりに咲き乱れている。跳ね橋は下りていた。
 板を踏み鳴らし一気に駆け抜け、ハンは止めていた息を吸った。春の夜風が肺に流れ込み、とたんに頭が冴えてきた。背後の跳ね橋がぎいぎい音を立てながら上がり、ハンを見下ろした。
 振り向くと、東屋には人影があった。
 月の光が芝生の道を淡く照らしている。簡素な橋とは打って変わり、東屋はよく磨かれた大理石でできていた。天使の彫刻がほどこされた円柱の影にザキルカの姿が現れると、ハンはその首に抱きついた。軽薄な笑みを浮かべてザキルカはハンを抱え、その拍子にハンはザキルカにキスをした。
 ふたりは互いに必要な存在であった。

 ピーターの容態が悪くなると、ザキルカはいよいよポルラム邸に住み着いてしまった。
 ザキルカは貴族の息子らしく堂々と阿片中毒に立ち向かったが、とうとう彼の心を折る事件が起きてしまう。ザキルカが三年かけてようやく完成させたハリネズミとスイートピーの『キメラ』十七匹を、ピーターが惨殺してしまったのだ。しかも寝間着を返り血で汚したピーターをザキルカはその目で見てしまったのだから不運である。
 ベッドに入ったものの一睡もできなかったザキルカは目にくまをつけながら、朝食の席で開口一番その出来事をハンに話した。おかげでハンは朝食を食べる気になれなかった。
「まるで悪魔に憑りつかれたようでしたよ。日頃の不満がこんな形で出てくるなんて……」
 言いながらザキルカはスプーンを曲がるほど握りしめた。
「どうしたの? ザックさん。あなた、阿片チンキでも飲んでむりやり眠ったほうがよいわよ」
「この屋敷で阿片チンキなんて口にしますか」
 ハンの悪い冗談に呆れた笑みを見せると、ザキルカはほろ苦いコーヒーをすすってため息をついた。
「こんな仕打ちを受けて、耐えて、果たして俺は報われるのだろうか。どうしようもないあのひとを必死に守った末になにがあるというんだろう?」
 阿片から立ち直りピーターが錬金術師としてふたたび功績をあげる日をひとり信じていた親友の瞳が、少し揺らいだのをハンは見逃さなかった。
 『キメラ』惨殺事件を起こしたピーターをひとりにしておくのは危ないと、以来カーグがつきっきりで介護するようになった。ハンの日課からピアノを弾くことが消えてしまった。朝食、昼食、お茶、晩餐とカーグがまったく顔を出さない日も増えた。カーグとピーターはずっとふたりきり。自分の知らないところで日々育まれているものを思うとハンは寒気がした。
 気になって穴ぐらを覗いてみたことがある。
 呻きながら吐く音がピーターの寝室からしきりに聞こえていた。カーグがピーターの背中をさすってやる光景がハンのまぶたに浮かんだ。
「死にたい。こんなみすぼらしい姿で生きていたくない。生き地獄だ。――ハンはいまどうしているのだ?」
 ドアの前でちゅうちょしていると急に密室が開いて、ハンは後ろに一歩足を踏んだ。
 出てきたのは大好きなカーグであったが、彼ではない気がしたのだ。ろくしょう色のくすんだ瞳はハンを見たとたん、ミントの葉を閉じ込めたゼリーのように優しく潤んだ。さっき険しい顔をしていたのは気のせいだったかしら。
 カーグは幼い姿をしたハンの目線に合わせて屈むとやんわり微笑み、豊かなバリトンで言いくるめた。
「ハンナ、叔父さんはとても具合が悪いのです。あっちに行ってなさい」
 頭を撫でられたハンは素直に引き返してしまった。だがピーターが自分を気にかけていたことを思いだし、妄想は悪い方向に膨らみ、ハンはふたたび妖しい密室に舞い戻ってドアを叩いた。
 カーグの首には新しいあざがあった。
「おにいさま。パパはもうなにも分からないわ。愛人のふりなんかしなくてもよいのよ」
「僕には叔父さんを見捨てていくことなんてできません」
 「叔父さんが愛しいのです」と言いながら扉は固く閉ざされた。
「看病するカーグさんを恐ろしく思うんです。救いの手を差し伸べたいがために壊しているように見えません?」
 ザキルカはそう言うけれど、カーグはピーターを支配しているようで実は縛られている。厄介なのはそれに気付いていないこと。
 わたしにはカーグしかいないのに、パパはわたしからカーグを取り上げてしまったのだ。
 阿片中毒で朦朧としていようがパパの存在は周りを振りまわした。
 ふとハンはザキルカと目が合った。
「師匠、煉丹術の助手を務めることになったんですよ。ソルディ・アラバンダ=レッガス博士の」
 研究所から帰ってきたザキルカはハンにシルゾルト語の書き取りをさせながら、気軽にぼやいた。
「師匠っていうか、ああいう状態なんで、俺がやるみたいなものですけどね」
「すごいじゃない。れんたん術はむずかしいってエマ先生言っていたわ」
「煉丹術は不毛なんです。本当は存在しないんじゃないかって噂も聞きますし、関わったものはみんな死んでいきます。貧乏くじを引かされてしまいました」
 話を聞いたかぎりでも、煉丹術という代物はなにやら穏やかでないと、素人のハンにも分かった。書き写している単語が途中からうねうねした糸くずに見えてくる。
「研究所は厄介払いしたいんですよ。でもピーター師匠は『キメラ』開発の功労者ですから、あんな状態になっていても免職できないんです。だから……」
 ハンは総毛立つ皮膚の下から血がじんわり温まるのを感じた。
「……ペンが止まってますよ」
 続いてザキルカはハンの学習ノートを指差し、「気恥ずかしい」という単語を構成するアルファベットが途中から一個抜けていると指摘した。ハンの注意は勉強に戻り、煉丹術の話題はそれきりになった。
 しかし「ワイン瓶」の綴りを量産しているころ、ザキルカは紙巻きタバコを灰皿に押し付けながらひとりごちた。
「やがて俺も……中毒になるんだ。“廃人”の……で死にたくない」
 それはハンの使う言語ではない。しかし、たったいま勉強している言語だった。ザキルカはハンに内容を知られたくないのか、それとも知ってほしいのか、よく分からなかった。ともかく、ハンはおぼろげにザキルカの心のうちを飲みこんだのだ。
――廃人。廃人!
 廃人という言葉はハンとザキルカの心を繋ぐ鍵になった。

――わたしはザックさんの背中を押してあげただけ。
 なのに、どうして。どうして。

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