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 ピクネシアに蔑まれてザキルカが『不老不死開発プロジェクト』廃止宣言をした晩餐会のあと、倒れそうなハンはザキルカに引っ張られるがまま連れて行かれた。着いたところは田舎屋敷の東屋で、中央には女神たちの石像が立っていた。それぞれ豊穣と美と運命を司る三人の女神が背中合わせに手を繋いで三方を見守っている。彼女たちがばらばらに切り離されると、はしごが不気味な地下へ続いていた。
 古い石造りの廊下をザキルカはろうそくで照らし出した。ハンに前を歩くよう視線で促す。雨漏りのある、幽霊が出そうな陰気な場所であった。
 錆びた鉄格子が見えてくるとハンは思わず足を止めた。――地下牢だったのだ。
「あ、あなた、いまに捕まるわよ。わたし、お墓があやしいってレスター警部に言ってしまったのだから」
 しかし、とっておきの文句にザキルカはたじろがなかった。肩をすくめて、
「そこらで貴女が白骨になっていても分かりはしませんよ」
 と、牢獄の隅を指差した。頭蓋骨が転がっているのを認めると、即座にハンはおとなしくなった。
 ろうそくの光が届かない闇が怖いけれど、ハンは引き返せない。後ろではザキルカが拳銃を握っていた。
「毎日毎日、師匠に話しかけるんです。昔から俺に興味のないひとでしたが、最近は全く口をきいてくれなくなりました」
 ついにザキルカの気は触れてしまったようである。ハンは死を覚悟した。こんな暗くてさびしい枯れ井戸みたいなところで人生を終えるだなんて思いもしなかった。ザキルカは本気だ。
――処刑される。
 足がすくみ、ハンは石の段差につまづいた。するとそのままザキルカに突き飛ばされ、ハンはドレスの裾を踏み、前方に倒れ込んだ。
「ロロットは牢獄に送られ、カーグさんは中毒症状に苦しんでいる。ふたりへの復讐は果たしました。――次は貴女の番です」
 すりむいた膝がじんじん痛むなか、ザキルカの狂った笑い声が脳裏に響いている。なんとか身を起こしたハンは、そこで思わず我が目を疑った。
「――パパ!」
 開けた岩壁の部屋に横たわっているのは、なんと死んだはずのピーターではないか! ついにハンはザキルカに殺されてしまったのだ。冷たい床からろうそくが雑草みたいにまちまちの長さで生い茂り、ピーターの顔をほんのり照らしていた。ハンは目をこすった。紛れもなく、ピーターであった。
「墓のなかにいるのは違うひとです」
 声に振り向くと、「死後の世界」にはザキルカもいた。ハンはハイ・ヒールで固い地面を蹴った。くじいた足首には生きている手ごたえがあった。これが「死後の世界」だとは信じられなくなってきた。でも目の前にはピーターの存在が確実にあった。ハンは混乱してきた。ありえないのだ!
――墓のなかにいるのは違うひとです――
 頭に入ってこなかった先程の言葉をハンは呪文を唱えるみたいに繰り返しつぶやいた。そしてカーグと一緒に掘り起こした死体に思い当たった。――顔を潰したのは替え玉だと気付かれないように!
 ハンはベッドに向かってゆっくりと歩んだ。
「よく考えたら、あなたがパパの顔をぐしゃぐしゃにできるわけがないわね。ザックさん」
 ピーターが急性水銀中毒に陥ったのはカーグの証言で確認済み。そして墓のなかには“いない”。信じられる二点の事実を指で数えて、もういちどそこにいるピーターを観察した。
 ピーターは目をつむったまま、さっきからぴくりともしていない。
「……パパの死体をこんなところに隠していたのね。さあ、お墓に帰りましょう、パパ」
 ハンは寝かされているピーターにそっと寄り添った。そして冷たくなった顔をよく見つめた。
 もう、喋らないのだ。いなくなればいいと願っていたのに、こうして死体を目の当たりにすると「なんて馬鹿なことをしたのだろう」とハンは自分を責めた。殺めた命が戻らないことを突きつけられたのだった。
「パパ、ごめんなさい。ゆるして……」
 ここで泣きはらしたいとハンは思ったが、涙は一滴も出てこなかった。
「逃げられませんよ、ハンナさん」
「わたしパパが死んでしまってから顔なんて見たくなかったのに、どうして死体を盗んだりなんかするのよ」
「死体泥棒なんかしていませんってば。ピーター師匠は眠っているだけです」
 ハンはザキルカが微笑むのを見てふたたび幻想に憑りつかれ、もう一度ピーターを観察した。
「……眠っているですって?」
「ええ、ちゃんと呼吸していますよ。胸が上下しているでしょう」
 ザキルカの言うとおりだった。鼻口に手を添えると、蒼白に見えたピーターの顔に赤みが感じられた。
「おかしいわ。水銀中毒で死んでしまったはずでしょう?」
「死んでいるのは脳だけですよ。俺がすげかえたんです、仮の脳にね」
 すぐさまハンはピーターの顔をまた確認してみる。脳が死んでいてすげかえた、とはどういう意味なのかぴんとこなかった。寝息を立てるピーターを微笑ましく思いながら、なんどもザキルカの言葉を反芻する。そしてとんでもない現実に、ハンは気が付いてしまった。
「死んでいるじゃない」
 ピーターの頬をそっと撫でてからハンは音を立てずに振り返り、ザキルカを哀れそうに見た。ザキルカは完璧に見えた笑みを引きつらせた。
「死んでいませんよ! これから生き返らせるんですから!」
 顔を真っ赤にしてザキルカは叫んだ。荒い息をしている。ハンは眉を寄せた。ザキルカはどうしてここまでピーターの死を否定し続けるのか。そして思い出した。ふたりは共犯である。ザキルカはハンより五か月先にピーターの死体と向き合い、殺したことを後悔していたのだった。
「貴女だって、生き返ったほうがいいでしょう? 無かったことにしたいと思うでしょう?」
「もちろんよ……できるの?」
 ザキルカは冗談みたいな笑みを浮かべてから曖昧な感じでうなづいた。彼は追い詰められている。神経がすり減ってしまっている。かわいそうな共犯者をハンは自分の分身だと思って、怯える手を労わるように両手で包みこんだ。
「ザックさん。わたしは、あなたとパパのためになにができる?」
 ザキルカはハンの頭を胸に引き寄せ、ハンにしがみつくような形で抱きしめた。
「一緒に嘆き悲しんでください。そして、俺とピーター師匠のためにすべてを捨ててください」
 非情に生命を営むピーターの姿をした化け物の前で、悪い秘密を共有するふたりの鼓動は溶け合い、高鳴った。
「カーグさんも捨ててください。これからは俺と……ピーター師匠……と三人で生きていくんです」
 ピーターのようなものをちらりと見ながら、ザキルカはそれを「ピーター師匠」と呼ぶのを一瞬ためらった。ハンもピーターではないなにかのためにカーグと別れるのはおかしい気がしたが、心にもやもやを残したまま決心したのだった。
 わたしたちは人類の財産ピーター・ポルラムを世界から失わせてしまった。
 もうハンは後戻りができない。ザキルカに言われたとおり、ピーターを生き返らせるしか道が残っていないように思うのだ。

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