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 一秒、また一秒。静かな夜をこちこち刻むのは柱時計の針か、はたまた心臓の音か。ハンの時間がこのように鈍足なのだから、ザキルカの時間は止まってしまったに違いなかった。
 ベッドサイドのサラマンダー・ランプを指で小突いて、そばにある懐中時計の蓋を開けた。ハンが眠れずにいる午前零時四十三分、そろそろピーターが死体になっていてもいいころだ。午前零時に迎えに来るはずのザキルカは来ず、朦朧としたピーターは部屋を満たしていく水銀に気付けない。ザキルカは慌ててドアを開いたが、もうピーターは手遅れだ。
 秒針の音が聞こえないように、布団の中に頭までもぐった。暗闇と静寂。ハンは息をひそめてまぶたを閉じる。耐えるのだ。夜が明けて新しい朝が来るまで――。
 眠れなかった。直接手にかけたわけではないのに、死にゆくピーターとこれから殺人罪に問われるだろうザキルカを思うと、ハンはまんじりともできなかった。
 ピーターの死がかねてからの願いだったのに彼が死んだあとの未来が急に描けなくなって、ハンは真っ暗な海に放りこまれて来ないかもしれない救助を待ち続ける思いで夜を明かした。

 毎夜繰り返される「ピーターを殺した夜」を破ってザキルカが飛び起きた。荒い呼吸を落ちつけながら額の汗をぬぐい、ザキルカは隣で眠っているハンの柔らかな黒髪に触れた。
「ハンナ、またあの夢を見たよ。君は眠っていたから師匠がどんな形相で死んだのか知るまい。カーグさんを閉じ込めてドアを抑えつけたときの感触が、まだ残っているんだ。ふたりとも正気に戻ったら……戻ってしまったら俺は……。ハンナ……よくもすやすやと眠っていられるな」
 撫でる手つきとは裏腹に、その言葉には憎しみがこもっている。朝の空気に慣れてきたザキルカはその手でハンの頭を軽くはたき、音を立てずにベッドから抜け出た。ドアが開いて部屋から人の気配が無くなると、寝たふりをしていたハンはようやく目を開いた。
 ハンがポルラム邸を捨てた日からザキルカは、眠るためにハンを抱き、悪夢から覚めるためにハンのそばで眠るのだった。植物状態にあるピーターと四六時中向き合うザキルカは、殺害の夜につきまとわれて逃れられない。ザキルカはハンと違ってまだ多くのものを持っているだろうに、夜にはハンしか残っていなかった。
 両開きの窓を開けて、明るくなりはじめた夜明けの空気をハンは胸いっぱいに吸い込んだ。
――カーグに会いたい。
 封じていた切なる願望はふとした瞬間によみがえる。
 こみあげてくるカーグへの想いは日ごとに増していくようだった。会いたいのに、会えない。叶わない夢はとてつもなく甘美だ。
 ハンは鏡台の一番下にある、自分用にあてがわれた引き出しを鍵で開けた。本のあいだに挟んでおいた新聞の切り抜きを取り出して、オイル・ランプの光に持っていった。両手を合わせた大きさの紙面には「ポルラム邸売却される」の文字がはっきりとあり、その横に写真が添えられていた――白黒ゆえにやや見劣りするものの、まぎれもなくポルラム邸だ。それは一か月前の記事だったが、何度読み返しても衝撃を受けた。
 さみしく感じるのはハンが二十一年間暮らした家というのもあるが、それよりも売却したカーグの気持ちを考えるからだ。ポルラム邸を売却したということは、心の整理がついたのだ。ハンに捨てられたカーグが過去を清算して、病と闘いながらも新たな人生を踏み出そうとする決意がこの新聞記事から感じられた。
――ポルラム邸の女主人になってください、ハンナ――
――ふたりで幸せな家庭を築くって決めたじゃないか――
 芯のぶれないバリトンがつかみどころもなくハンの耳に溶けた。
「またそんなものを見て。捨てたんじゃなかったのか?」
 後ろから手が伸びてきて、新聞記事をひょいと取り上げる。びっくりしてハンが振り返ると先刻出かけたはずのザキルカがいた。――入ってきたのに気が付かなかった。
「どうしたの。わすれもの?」
「いいや。君の様子を見に。――まだ忘れられないのか、ポルラム邸が」
 ザキルカは瑠璃色の瞳をハンに向けた。その瞳はまだ片眼鏡で飾られていない。ザキルカはつい先ほどピーターに会ってきたらしかった。その真剣で弱り気味の表情を見れば大体分かる。ハンは首を横に振った。
「きっと忘れるわ」
 一か月も売却を引きずっているといい加減に説得力がないらしく、ザキルカは興味無さそうに「ふうん」と軽い相槌を打って皮肉めいた笑みを浮かべた。

 すべて失ってザキルカの田園屋敷に来た。ピーターという檻の中に閉じこめられたハンは、檻を壊せるかもしれないザキルカを頼りに生きていくしかなかった。
 流し場女中の仕事を始めて二か月ちょっとになる。日の出とともに台所に入ってきたハンは、ジャガイモの下ごしらえにとりかかった。この屋敷と庭を維持するための使用人 二十名ほどの朝食である。
 街屋敷に住んでいるザキルカが田園屋敷でハンと一緒に眠るのは“お忍び”にあたるわけだが、彼の使用人たちにはおおかた周知されていた。勘の良い使用人たちはハンが主人と深い仲にあると推測していた。ハンが女中の分際でザキルカの寝室を使っているからだった。愛人ではないのか、と。それをハンは否定せず、曖昧にしておいた。「主人の愛人」という肩書きは、没落して女中に成り下がった富裕層出身のハンへのいじめを緩和してくれたのだ。ハンはザキルカの庇護で生きていた。
「あんた野菜の皮しかむけないんだよね?」
 ジャガイモの泥と格闘していたハンはたわしの手を止めて肩越しに後ろを見た。
「お鍋も洗えますわ。お皿は止められたけれど」
 流し場を背にして、ハンは先輩女中のエレンに上目づかいをする。エレンは大げさにため息ついて、あきれたように首を振った。
「まるで戦力にならないわ……皿洗いくらい、できるようになんなさい」
「ごめんなさい」
「エレン、今日は坊ちゃまおひとりだから、だいじょうぶよ」
「え、おひとりって。狩猟パーティーっぽいのじゃないんですか?」
 エレンとそのまた先輩――オーブンでパンを焼いていた台所女中――がやってきて話しはじめたので、ハンはうつむかせていた目を上げた。
「違う違う。“田園屋敷の囲い女”に会いにきたんじゃないかなあ」
 「ザキルカ坊ちゃま」のお食事についてたずねようとした“田園屋敷の囲い女”ハンは、台所中の視線が自分に集まったのを感じて喉に声をつかえさせた。ザキルカが白昼堂々囲い女に会いにくるなんて、ハンには信じがたかった。公爵令嬢ピクネシア姫との婚約があるからだ。ザキルカは危ない橋を渡るような考え無しではないはずだ。
 しかしとびきり豪華な朝食がひとり分だけ作られていつもよりやや多く鍋が回されてくると、ハンにはザキルカの気まぐれな滞在が彼のむこうみずな幼稚さを表しているように思われた。考えてみれば、危ない橋を渡ることを厭わないのがザキルカだった。ピーターを植物状態で生かしておくのは賭けではないか。甘やかされて育ったザキルカは、失敗を恐れて慎重になるより大胆かつ強引に物事を推し進めてしまうタイプなのだ。失敗しても揉み消せばいいと思っている。ピーターの死を無かったことにできる自信がある。
 その日「ザキルカ坊ちゃま」は昼食、夕食としっかり召しあがられた。ハンは流し場でご馳走ひとり分の重みと向き合っていた。流し場女中は「ザキルカ坊ちゃま」にお目にかかれない――ザキルカは寝室での関係を引きずらず割り切っていた――にもかかわらず、一日中ザキルカの滞在を案ぜずにはいられなかった。
 十本の指は水ですっかりふやけて赤く腫れてしまった。皮膚に油の臭いが染みついて取れない。ハンはザキルカの身の上を心配したことを忘れて、彼に文句のひとつでも言ってやらねば気が済まなかった。
「ザックさん」
 寝室のドアの隙間からハンはザキルカの姿を探した。
 ザキルカはガウンなど着てすっかりくつろぎ、本を読んでいる最中だった。ハンはザキルカに湿った白い女中帽を投げつける。
「おかえり、ハンナ。遅かったじゃないか」
「いつまでいるつもりなのよ!」
「さあ。しばらくはいるつもりだよ。君だって俺がいたほうが淋しくないだろ?」
 腰に手を当ててへらへらと笑ったザキルカは、ハンが制服を脱ぐのを手伝いはじめた。
 たしかにザキルカがひとつ屋根の下にいたほうがいい。慣れない職場は馴染めないし、なによりピーター・ポルラムの重圧を一身に背負うのは苦痛だった。重圧はふたりで分かち合いたい。
「でも、わたし、あなたの愛人だとおもわれているのよ。あなたがここに住みついてしまったらもう否定しようがないわ」
「愛人じゃないか」
 ボタンを外したワンピースの胸もとに顔をうずめて、ザキルカは笑えない冗談を言う。
「ばか! わたしを愛していないくせに」
「ああ、憎んでいるさ。でも“共犯者”としては愛しているよ。君無しでは耐えられないんだ」
 ねずみ色のワンピースが床に落ちた。ザキルカは下着姿のハンを抱き上げてベッドの上に連れていった。火照った指でハンの華奢な太ももを、腹を、腕をなぞってザキルカは目を細めた。恍惚そうにゆっくりと息を吐く。それはピーターがかつてハンにしたことに似ていたが、今では嫌だと思わなかった。ハンにとって必要なものだったから。
 ハンは冷え切った手足の先をザキルカの肌であたためはじめた。清潔な首筋につけられたウッディの香りにハンは酔う。
 ハンの耳たぶを指先で撫でながら、ザキルカは薄く笑んだ。
「阿片に頼らざるをえなくなったピーター師匠の気持ちが分かるようになった。耐えられないんだ、師匠を殺した罪に。共犯者の君の中でしかまともに息ができなくなってしまった。頼むから追い出さないで、君の温もりで俺に夜を越えさせてほしい」
「遊び人のような言葉ね、ザックさん。言葉にしなくってもよいのよ。わたしも同じだから」
 ザキルカの頬を濡らした涙をハンは指で拭った。ザキルカの青い瞳の中にはハンが映っている。今のハンの居場所だ。
 ピーターの死から逃れるために、危ない橋を渡らなければ生きていけない。ふたりは阿片を使わなければ眠ることができなくなっていたのだ。
 唇をつけたふたりは、互いの魂を貪るように相手の喉から息を吸いこんだ。

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