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「ハンナ」
 シルクハットを脱いで、カーグは女中姿のハンに目を細めた。かつてドレスを着ていたハンは汚れたエプロンがすっかり板についていた。カーグはエメラルドの瞳を丸くする。そして変わり果てたハンを哀れむように見つめた。
 ハンもカーグを眺めた。生粋の紳士ザキルカを見慣れてしまったせいか、カーグのフロックコートは似合っていなかった。少し伸びたくせ毛と締まりのないくちびるには、野暮ったさが感じられる。とてつもなく長い二か月だったから、ハンが変わってしまったようにカーグも変わってしまったのだろう。
「ハンナ」
 カーグは震える声でハンの愛称をもう一度繰り返した。夢ではないこと、そしてザキルカの屋敷で女中の服を着ているのが本当にハンなのか確認するために。
「なにか用?」
 ハンは苛立った調子であえて素っ気なく口を利いた。そしてエプロンの肩ひもを直す仕草をして、まくった袖をもう一回折って、カーグに「自分はいかにも女中である」と見せつける。
「まさかザキルカさんのところで働いていたなんて……きみにプライドはないのか?」
 やっとのことで意見を口にしたものの、カーグの声は裏返っていた。ハンは頬を膨らませて、
「ここのひとたちにかくまってもらっているのよ」
 エプロンのほこりを払う仕草をすると、ハンは肩をすくめた。
「探すとおもった。しつこいのよ、あなたってひとは。わたし言ったじゃない、パパを壊したあなたを許せないって。それにあなたはパパを忘れられないでいるのでしょう? わたしたち、別れたほうがよいわ」
 きつい口調で言い切って、ハンはカーグから目を逸らし裏庭の草花を眺めた。雑草と呼ばれる白や黄色の名もなき花たちだ。彼らは別れてしまう夫婦を止めもせずに、ただ傍観していた。
 カーグは自分が中毒患者であることやピーターを忘れられないことについて突かれるとなにも言い返せない。それは二か月経っても変わりなかった。籐の杖を握りしめて、カーグは拳を震わせている。
「だからポルラム邸を手放したんだ。叔父を忘れるために。忘れたいんだ! 僕はとんでもないことをしたけれど、阿片中毒に苦しむことで罪を償っているつもりだ」
――パパを……「忘れる」。
 そのとき、ハンは秘密裏に生かされて暗く冷たい部屋で眠り続けるピーター・ポルラムのことを思い浮かべた。
「忘れられるの?」
「とても難しいだろうね。でも忘れるべきだ。叔父はもうこの世のひとじゃない。さまよっている彼の魂を安らかに眠らせてあげなければ」
 そう言いながらカーグは眉間に深いしわを刻んでいる。
「僕の身体をむしばむ阿片はあの男の“復讐”。きみがおとなになれないのはあの男の“呪縛”。世の中がどんより暗いのはあの男の喪が明けていないからだ」
 耳を疑った。黒雲とともに鳴り響く雷のような声を吐き捨てたのはカーグである。ハンは一歩後ずさった。水銀中毒の具合は分からないが、この二か月で阿片がカーグの心をすさませているらしかった。彼は優しく柔らかな印象を持っていたはずだが、すっかりささくれて別人のようになっていた。それは手のつけられないピーターを思わせた。高圧的な視線を感じる。そのうち暴力を振るいかねないし、いずれは“廃人”になってしまう可能性もあった。
 ハンは「パパを忘れないで」と言えなくなっていた。カーグは自身の苦しみの元凶をピーターに結び付けている。ピーター・ポルラムが生き返ることを望んでいないのだ。もしピーターが生きていることをカーグが知ったならば、真っ先に殺すだろう。阿片中毒者の禁断症状みたいに発作的に、殺さずにはいられなくなるだろう。
 脳死状態で生きるピーターはハンとザキルカにとって神秘であり罪の化身――崩されてはならない精神世界の象徴――だった。そこらの死体とはわけが違う。いまやピーターはハンとザキルカを縛り付ける崇拝対象である。朽ちさせず保管しておかねばならなかった。
「でていって!」
 両腕を真横いっぱいに広げて、ハンは勝手口のドアを通せんぼした。
「どうして? きみまで隠居することはないだろう。さあ、僕と一緒に来るんだ」
 細腕の柵が自分の行く手を阻むなどカーグは思いつきもしなかったらしく美しい眉を少し寄せたが、ちっとも怯まずに柵を壊した。そしてハンの二の腕を固く掴んで離さなかった。
「やめて! 離して!」
 ハンは崇高な精神世界を守るべく必死に抵抗する。こうして揉みあっているのを台所の窓から顔を出した女中たちが面白そうに見物していた。主人の愛人と噂される少女を若い男が連れ戻そうとしているのだ。その三角関係はオフ・シーズンの暇な田園屋敷にとって、ザキルカの問題行動の次に大事件だった。
「俺の女に手を出すな」
 そこへタイミングよく、ぴしゃりとした声がふたりの間に割って入った。カーグの手は引っ張るのをやめ、ハンは中庭のほうへ振り返った。白衣姿のザキルカが小さな籠を片手に立っている。
「『俺の女』?」
 不法侵入者っぽい目つきでカーグは屋敷の主人を睨みつけた。こんなときにふざけるなんて、ザキルカはどこまでハンを苦しめれば気が済むのだ。悲哀を目に浮かべてハンはザキルカを見上げる。
「俺の女だ。昔の男は黙ってろよ」
 ザキルカはハンを片腕にかばって堂々とカーグを見据えた。ザキルカの剣幕にカーグは反射的に歯を噛みしめた。そしてカーグは三角関係の中心人物である、ひとりの女に視線を移した。
「ハンナ、そういうことなのか? だからきみまで隠居して」
 ハンはなにも言わずにカーグから目を背けた。ザキルカとも目を合わさず沈黙を守っているが、彼女が「ザキルカの女」だとカーグも野次馬の女中たちもすっかり信じこんでしまった。否定しようにも否定できなくなり、ハンはやり場のないため息をついた。
「勘がいいですね、カーグさん。よくハンナの居所と俺の隠居を読んだものだ」
「錬金術は人里離れてこそ真価を発揮するのだと、叔父がよく言っていました。所長を辞任して隠居するのは勝手ですけど、あなたの身勝手にハンナを巻き込まないでください」
――「隠居」?
 さきほどからしきりに飛び交うその言葉には重大な意味が込められていたのだ。胸を騒がせながら、ハンはザキルカをおそるおそる見上げる。
「ザックさん、所長を辞めてしまったの? 隠居ってどういうことなの?」
「言葉通りだよ、ハンナ。研究所も社交界も捨ててしまったのさ。君のためにね」
 ザキルカはハンのふっくりした頬にキスをした。
「からかっているの? 本気なの?」
 ハンは不安になった。ザキルカにはいつもどおり普通の生活をしていてほしいのに。変に目立ってピーターの存在が世間にばれたらどうするのだ。
「ピクネシアさまには知らせたの?」
「婚約は解消した」
「……ばかじゃないの!」
 ハンの首筋にくすぐったい息をかけながらザキルカは衝撃的な事件をさらりと言った。ハンは左右のこぶしでザキルカの胸元をぽかぽかと叩いた。
「ハンナ」
 自分の愛称を呼ばれて、ハンは凍りついた。おそるおそる振り向く。ザキルカと明らかに距離が縮まっているハンを見て、ひとり置き去りにされていたカーグは確信したのだった。
「別れたいのならはっきり言ってくれればいいのに。内密の結婚でよかったね。綺麗に別れられる」
 そう言ってカーグは今日初めて笑顔を見せた。意地の悪い子どもっぽい笑みだ。売り言葉に買い言葉だと分かってはいるが、ハンは心を痛めた。
――わたしこそカーグを諦めきれないでいる。未練がましいのはわたしのほうだ。
「せいぜいザキルカさんに遊ばれて捨てられるがいいさ」
 カーグは捨て台詞を吐いてシルクハットをかぶり、ハンとザキルカに背を向けた。これでいいのだ、とハンは自分に言い聞かせた。ところが、その遠くなった背中に向かってザキルカが追い打ちをかけた。
「さようなら、カーグさん。もう二度と来ないでくれ」
 ハンはなにか言いたげな顔でザキルカを見上げた。せっかくカーグがハンから離れていきつつあったのに、普段からザキルカが気にくわないカーグが足を止めて戻ってくるのは当然だった。
「いやだよ!」
 引き返しながら顔を赤くしてカーグはまくしたてた。
「ハンナ、きみがだれと結婚しようがかまわない。でも僕と別れた直後にザキルカさんのところへ行ってしまうなんて、あんまりじゃないか」
 ハンが黙っているので代わりにザキルカが答えた。
「俺がハンナさんを必要としているんだよ。ハンナはピーター・ポルラムが求めた“永遠の処女”だ。言うなれば聖母。俺の錬金術という芸術に必要な創造の女神なんだよ」
 ザキルカのたとえがあまりにキザだったので、ハンはカーグの目の前から今すぐ消えたかった。一方、肩を抱く馴れ馴れしい腕を振り払おうともしないハンを見て、カーグはさらに不快感を覚えた。
「“永遠の処女”だって?」
 震えながらカーグはザキルカとハンを交互に見る。
「ハンナはね、身体に跡が残らないんだ」
「そういうことか、ハンナ……娼婦の娘が」
 ザキルカが破たんの舵を取る。ハンはその針路を止めることができなかった。
「カーグ!」
「さよなら」
 船は絶望的な闇の深淵に難破してしまった。わたしは俗世間から完全に切り離されてしまったのだ。
「捨てたんだろ?」
 皮肉な口調にハンはザキルカの腕を勢いよく振り払った。すると籠からこぼれた小ぶりの草が地面にばらまかれる。それは薬草だった。ピーターに使う薬草。おもむろにしゃがんで拾いはじめたザキルカの孤独な背中を見て、ハンは寄り添わずにはいられなかった。――ザキルカも捨てたのだ。
「どうして捨ててしまったの? ピクネシアさまや……お家まで」
「命を賭けているからだ」
 真っ直ぐな青い瞳がハンを見つめた。ハンは「ばかじゃないの!」とザキルカの頬をぶちたかった。

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