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「『安全棺』の話を覚えている?」
 振り向きながら、ザキルカは親しげな友の顔でハンに訊ねた。
 ハンはうなづいた。覚えている。しかし墓を掘ってみると、そんな棺は存在しなかった。ザキルカの大嘘だった。
「あなたはパパがひつぎのなかで目覚めるのだと言ったわ。まだ肉体は死んでいないから。脳死だから」
「そして目覚めた師匠のために、棺の中に缶詰を入れておいたってね」
 肩をすくめながらザキルカはくすりと笑う。それを見てハンは頬を緩めたが、足は地にしっかりとつけていた。
「わたしがおろかだったわ。脳が死んでしまえば肉体もやがて死んでしまう。目覚めるはずなんてないのに」
「では、どうして脳死が完全な死に繋がるのか、知っているか?」
 白衣の襟を正しながら質問するザキルカは科学的な答えを求めているようだ。しかしハンは、あえて自分の言葉で答えた。
「魂のない人間は、人間とは呼べないからよ」
 ザキルカはしばし子どもの芯に秘められた言葉を玩味していた。声の主をつぶさに見つめて、柔らかな黒髪を撫でる。
「可愛いな、ハンナは。惜しいけど違う」
 腕を組みながらザキルカは錬金炉の前を行ったり来たりしはじめた。とりとめのない考えごとをまとめる揺り椅子みたいに、穏やかな歩調で。
「人間は魂を失っても生きていける。植物のように。それに晩年の師匠は廃人で、魂はあってないようなものだった」
 ザキルカは言葉を区切ってまばたきをした。阿片中毒のピーターが脳裏をよぎったのに違いない。それから自分自身に首を振った。
「答えは新鮮な空気と水と食料が不足していたから」
 思わずハンは目を見張った。「新鮮な空気と水と食料」。目の前でぴたりと足を止めたザキルカがなにを考えているのか、ハンには読めなかった。
「あなたが『安全ひつぎ』に入れたものじゃない」
「その通り。それさえあれば脳死したまま生き長らえることができるのさ」
「新鮮な空気と水と食料」
 繰り返しながら、ハンはこの近くで眠るピーターのようなものを思い浮かべる。いまいちぴんとこなかった。砂のようにざらりとした違和感があるのだ。
「……食べられないでしょう?」
「その通りだ、ハンナ」
 ザキルカはこくりと頷いた。そして人差し指の先をみずからのこめかみにつけた。
「脳をすげかえることで自発的な呼吸は可能になったけど、食べられない。問題はどうやって食べさせるかだった。注射器で栄養分を入れる方法も考えたが、現実的ではなかった。注射器はついこのあいだ発明されたばかりだし、錬金術のほうが俺には馴染んだ」
 そこまで言ってザキルカが錬金炉を眺めたので、ハンもそれに目を向けた。そしてピーターのようなものを思い浮かべる。
 錬金炉のなかには魔法円だか純金だか何だか知らないが、ハンを溶かしてしまう要素が含まれているらしい。炉に入った「白鳥」と「白馬」は分解され、「ペガーズ」という一個の生物が生まれた。赤い薔薇の花びらは青くなった。炉に入れられた奴隷の子孫から天才が生まれることがある。アラバンダ=レッガス一族は赤い瞳を遺伝子に組み込むことに成功した。
 死んでしまうはずだったピーター・ポルラムの命を半年も生き長らえさせたのは、なるほど錬金炉のしわざとしか思えない。だとすればピーターのようなものの存在にも納得できた。
「パパは『キメラ』なのね?」
 真剣なハンの眼差しに、ザキルカは照れ隠しのような自嘲めいた笑みを作った。
「一日に一度、ピーター・ポルラムを食物と一緒に炉に入れる。肉体は不要なものを切り離し、必要な成分と合成される。つまり彼は“食事”のたびに新しい『キメラ』となる」
 人間の個性を決めるのは肉体ではなく魂である、と信じるハンにとって、脳をすげかえたピーターはピーターではない。その上、肉体までピーター本人とは違ってきているようだ。とあれば、いったいどこにピーター・ポルラムと呼べる要素が残っているのだろう? ピーターの姿をした蝋人形とさして変わらないではないか。
「やっぱりパパは生きてるとは言えない」
「いまのところはね」
「どういうこと?」
 冷静に現実を見つめようとしていても、ハンの心音はザキルカの声に大きく高ぶってしまう。まやかしの蝋人形だと頭では分かっていても、心はそれがピーター本人であってほしいと望んでいた。
 ハンは嘘か本当か分からないザキルカの次の言葉をただ待った。神妙な顔つきになったザキルカは重たい唇を開いた。
「限りなくピーター・ポルラムに近い『キメラ』を目指している。残念ながら死者を蘇らせる方法は見つからなかった。だから『キメラ』である“仮のピーター”を本物に近づけていくことにした」
 ハンは小首を傾げた。それでもパパは生きているとは言えない。
「百パーセントの人体蘇生ではなく九十九パーセントを目指していく。君は納得いかないだろうが、一パーセントの違いなんてだれも気にしないものだ。ソルディ博士に教えも乞うた。一から『ホムンクルス』――人造人間――なるものを生み出すより、はるかに簡単な作業だ。いわば“人間の復元”」
「“人間の復元”」
 ハンは研究所の廊下ですれ違う白衣の人々の視線を思い出した。ザキルカの言葉は血の臭いがするエマ先生の研究室を思わせた。人間は「ペガーズ」じゃない。「ペガーズ」のようにハンを作ったピーター・ポルラムは自らが生み出したものに苦しめられたあげく、狂って死んでしまったではないか。深く考えなくてもザキルカらしからぬ危険な思想である。錬金炉が狂気に満ちているのは、ハンを生みだした人間の道具だから。たとえ人間が人間を創れるとしても、創ってはいけない。
――蒸気機関が吐くどす黒い煙と行き過ぎた石炭採掘は裁きを早めるわ。ハンナ、シルゾルトの空にペガーズはいないのよ――
 スモッグを生み、空を汚染した蒸気機関は神の裁きを受けるというが、ザキルカがしようとしていることは人間の汚染ではあるまいか。
 悲しむべきことに、ザキルカの絵空事は「ソルディ博士」という単語によって実現できそうな気がした。ピーターのことはハンとザキルカふたりだけでひっそり追悼していくものと思っていたのに、いつのまにやら大がかりなシステムになっている。ハンはザキルカをわなわなと見た。
「ソルディ博士まで知っているだなんて」
「ソルディ博士は――エマ・ホールデンを見ても分かるだろう――延命のスペシャリストだ。それに彼女はマッドサイエンティストだ、滅多に見られない余興を警察に暴露して台無しになんかしない。遠いところで『結果を楽しみにしてる』ってさ」
「ザックさん、だめよ……」
 か細いハンの声をザキルカは聞いちゃいなかった。額にかかる前髪を指で流して、さらに狂気じみた自嘲を浮かべて、
「人手が必要だった。これは壮大な人間の復元計画なのだ。ひとりでは実現できない。どうしても犠牲になってもらわなければ」
 ザキルカは銃口をハンに向け、そしてミギワと三人の奴隷のほうへ順々に向けた。男装の麗人ミギワは石膏像のように無機質な表情で隅に立っていた。
「炉まで運んで“食事”させるだけじゃない。寝返りもうたせなきゃならないし、絶えず監視しなくちゃあならない。物資の補給だって必要だ。今の状態を維持するだけでも、三人の男手とそこの女は犠牲にならなくてはいけなかった」
 暗くて気付かなかったが、錬金炉の全体を照らす四方のオイル・ランプの明るさのもとで、ミギワの瞳は真っ白だった。虹彩はおろか瞳孔までもが淡いため、白目との境目がはっきりしなかった。一同の濃厚な視線を感じたミギワは、開きすぎた胸元のボタンを上まで全部留めた。豊満な胸の谷間もまた青白く、透き通るようだった。
「先天性色素欠乏症」
 ミギワの開いた胸もとの残像に性的で痛々しいものを感じて、ハンは顔をしかめた。
「詳しいな」
「そういう子どももいたから。パパが買っていたなかに。……彼女も一生自由にさせないつもりなのね?」
 ミギワの無表情は希望を失った諦めの表情に近かった。神秘的な白い瞳には不服そうな投げやりの輝きがあった。
――田園屋敷の囲い女。
「そしてわたしも」
 言葉を付け足して、ハンは心臓に手を当てた。
 ザキルカはおもむろに白衣を脱いで、ハンの肩にふわりとかけた。ハンは自分が震えていたことに気が付いた。日の当たらない地下室の寒さが急に身に染みてきたのだ。キャラコのワンピースに麻布のエプロンといった恰好だったから。しかし、それだけではないだろう。白衣の襟を前でぎゅっと合わせても、まだ震えが止まらなかった。
「怖がることはないさ。成功すれば晴れて俺たちは地上に出られる、それだけの話だ」
 ザキルカはかじかむハンを温めるように上から抱きしめて、おかしそうに笑った。その声は部屋中に響き渡り、感情の無い錬金炉からも笑いが聞こえてくるようだった。「お腹の中でお前を溶かしてやろう」と炉は言った。

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