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 ミルク色の浴槽にぬるい湯をはって、そこに小さな身体を浸した。こどもの柔肌とは弱いものだと思っていたが、間違っていた。その肌は容易く傷つきそうなのに傷がひとつも残っていなかった。肌に食いこませた指先から伝わってきて、ザキルカは少し震える。
 生まれたての真新しさを保つには老化という天命を覆す超自然的な奇跡、あるいは不自然な人為的エネルギーが必要だった。ハンの不老は後者によるものとされているが、彼女のうぶな肌はあまりに完成度が高かった。不自然な人為的エネルギーを使って、ピーター・ポルラムは超自然的な奇跡を起こしたのかもしれない。
 その晩、愛人を隠す理由もなくなったザキルカは浴槽に湯をはらせて、ハンを隅々まで入念に洗い上げた。細い髪に泡をつけて絡まりをほどいてやる。すると北世界でもっとも美しいヘリオドールの瞳が潤んで、あどけない顔でまばたきした。
「染みた?」
 ハンはまっすぐザキルカを見据えながら、そっと涙のしずくを落とした。
「やめてほしい」
 呟くようにそう訊ねるものの、肌をまさぐる手をやめる気などザキルカにはさらさらない。それが声のニュアンスや視線、肌をひっかく爪の重みに出ているのだろう、ハンは朦朧と首を振った。
「わたしはあなたのものだもの」
 共犯者が……罪をかぶせようとした女がきいた小憎らしい口に、ザキルカは歪んだ唇を押し当てた。このまま息を止めよう。時間を永遠に止めてしまおう。ザキルカはそう望んだが、ピーターが遺したこの人類の失敗作にして美の最高傑作は“生きていた”。
 自我を消そうとしていたハンは酸欠で苦しくなり、ザキルカの拘束をついにはねのけた。ふくらみかけた幼い乳房が上下していた。花開くまえに摘み取った、つぼみのように繊細な乳房である。
「見ないでよ」
 荒く息しながら裸のハンは自らを抱きしめて、ザキルカを睨みつけた。
「見ないでよったら!」
 ハンが語調を強くすると、ザキルカは笑い声をあげた。固く締めた両腕をほどいて捻り上げ、静脈の透けたハンの青白い乳房は再びあらわになる。
「見ないでと言われたらますます見たくなるのが人の性だ。お前の子どものままの不老の身体をすみからすみまで俺は見尽くしてやるのだ」
「軽蔑するわ」
「きみに言われたくないな」
 外科医のように袖をまくって薄い笑みをひたと浮かべるザキルカを見て、無駄な抵抗だと分かったらしい。ハンはふたたびおとなしくなり、ザキルカにされるがままになった。しかし反抗的な目の光が消えることはない。
 ザキルカはハンに傍観されながらハンを手で犯した。生えかけのわずかな陰毛を人差し指ですくって湯に晒す。彼女の第二次性徴は完成間近で強制的に中止されてしまった。この異常さを「小児性愛者の好み」というくだらない理由で片づけてしまってよいものだろうか。ピーターは「罪深き存在ゆえに」ハンの生殖機能を断ったとも言われている。こちらのほうがまだ信憑性があった。ピーターがハンにうなされていたのも合点がいく。
 ハンの下腹部に手のひらを当てて、ザキルカは目を閉じる。――ハンには子宮が無い。これが罰ならば、彼女は一体どれほどの罪を犯したというのだろう。その罪とは一体なんだ? ユリエを殺したときにちょうど成長が止まったため、プロジェクトのハンは不妊をユリエ殺しの罰だと思っているが、彼女は生まれるまえから不老を仕組まれていたのだ。なぜならハンの存在理由は「不老であること」だから。しかし、不老の身体で生まれてくること自体が罪なのだとしたら?
 もしくは、ハンは所詮、完全な不老不死に至らなかった失敗作である――彼女はいつか死んでしまう。ピーターは完璧を求めるあまり、ハンを愛せなかったのかもしれない。芸術家肌のピーターらしい。完成する見込みのない失敗作を愛する気にはなれず、むしろ憎んだ。失敗作をペガーズみたいに繁殖させてはならない――
 ここまで考えて、ザキルカは首を振った。ピーターの胸の内を結局ザキルカは推測することしかできないのだ。なぜならハンの出生の秘密を抱えたままピーターは死んでしまった!
――ピーターの復元は、真実を追求することに繋がる。

――ハンナには跡が残らないんだ――
 ハンはザキルカの好みの女性像ではなく、ピーターの好みの女性像だ。十五歳で亡くなったピーターの母親エリザベスを模して作られたのがハンである。瞳のレモン色を再現するために、似た色を持つイラージェを母体に選んだ。
 ザキルカはピーターの趣向を好むことでピーターになれると思っている。よっぽどピーターの才能に惚れこんでいるのだろう。ピーターがハンを愛するように憎むように、ザキルカもそうするのだ。しかしそれは表面的な模倣に過ぎない。ザキルカはピーターにはなれない。愛人の僕でさえ知らないピーターの真意を、疎まれていたザキルカが知っているはずないのだ。
 きっとザキルカはハンナを本当に愛していない。錬金術師として、美術愛好家として、叔父が生み出したハンナを愛しているにすぎない。ハンナを「化け物」と呼んだ周囲の大人たちとなんら変わりはないのだ。ハンナはそれに重々気付いているだろうに。
「どうしてザキルカなんかと……」
 パブのカウンターでぬるくなったエールをちびちびやりながら、カーグの頭の中はザキルカの言葉でいっぱいになる。ハンの無事が確認できればそれでいいと思っていたが、ザキルカと男女の仲になっていたのにはこたえた。ハンの幸せを願うなら、ザキルカに譲るべきなのだろう。社会的地位を失ったザキルカでも中毒患者よりましである。しかし、カーグは煮え切れなかった。ハンと過ごした二十一年間の重みを知っているから。
――ハンナには跡が残らないんだ。
 ザキルカの手は馴れ馴れしくハンの肩を抱いていた。
「くそったれ!」
 琥珀色をしたグラスの底をカウンターに叩き付けて、カーグは頭をかかえこんだ。日もとっぷり暮れて、ナール研究所内のパブは夕食がてら飲みにきた研究者の客足で賑わっていた。澄んだ星々が瞬くころ、ハンはザキルカの腕に抱かれるだろう。そう思うとやるせない。近頃エールを美味しく思いはじめた自分がうらめしい。お上品なザキルカはワインしか飲まない。
「ちくしょう、ザキルカのやつ。大切に育ててきたハンナなのに」
「エールとフィッシュ・アンド・チップスちょうだい」
 甘ったるいアルトに振り向くと、エマが隣に腰かけている。幼少のころ実家を出たカーグにとって、エマは母親のような存在だった。当時ピーター一家と離れて暮らしていたから頼れる大人はエマだけだった――やがて可愛いハンの危険を感じて反発するようになったが。カーグは顔を赤くして、育ての母の顔をまともに見れなかった。
「またひとりで飲んでるの? 悪い酒よ、あんた。お友達を作りなさいよ」
「ここに長居する気はないから」
「あら、そう。いい心がけね」
 エマはなにも聞かなかった。カーグはエールをお代わりして、エマが頼んだフィッシュ・アンド・チップスをつまみにちびちび飲んだ。
「このタラが美味しいんだわ」
 十五分経ってもエマはなにも聞いてこない。まさか隣に座ったのは世間話をするためではないだろう。しびれを切らしたカーグは話しはじめた。
「ハンナに会ってきたんだ……ザキルカとできてた」
 するとエマはタラの唐揚げを酒で流し込んでから、伸びてきたカーグの頭をくしゃくしゃにするのだった。温かな刺激に涙腺が緩んだ。涙を零さないように、カーグはエマの顔に走る手術痕を目でなぞった。最近また整形手術をしたらしい。昔のエマの顔がどんなだったか上手く思い出せないけれど、二十一年の歳月を感じる。
「あんた、泣いていいのよ」
 気情に下唇を噛み、カーグはカウンター机を睨んだ。
「ハンナは『永遠の処女』なんだってさ。叔父のための『永遠の処女』なのに、自分のためみたいに言いやがる」
「そうね、あの子はピーターのための処女だわ。でも処女はどんな男にも愛されるわ。あんただけのものでもないし、ザキルカのものでもないわ」
 片肘つきながらエマは空いた手でグラスを傾けている。
「娼婦になるべきだと?」
「似合わない。酷だわ」
「じゃあだれのもの? 叔父さんが死んでしまった今、ハンナはだれのものなのさ?」
「ハンナを『永遠の処女』だと思ってない男のもんだわよー。あの子ならそれを選ぶわ」
 そう言ってエマは白い垂髪を耳もとでかきあげた。カーグの鼻頭を指で小突くが曇った顔は晴れやしない。
 カーグは眉根を寄せた。ほろ酔い気分はすっかり冷めていた。
――そんな男は……いない。
 「小児性愛」とは特殊な性癖のことだと思っていた。だが純粋さを求めるあまり、転げ落ちる癖だとしたら。ピーターはエマの品を欠いた露出に呆れ、ケイトのヒステリーにうんざりしていた。ほんのちょっとしたことで陥ってしまう癖なのだとしたら? 僕の男色や阿片のように、どうしようもなく簡単に。
 そう、僕はハンナを普通の子どもだと思っていない。他のどんな子よりも愛おしい特別な子だ。今まで指一本触れてこなかったけど本当はそのうぶな肌に興味がある。彼女の頬っぺたは柔らかくて気持ちがいい。だからもっと思いっきり触れてみたい。彼女を全身で感じてみたい。僕にとっての女はハンナしかいないんだ!
 カーグはいつの間にか抱え込んでいた頭を上げて、エマにすがるように言った。
「エマ先生、僕はハンナを愛していると思っていました。けれど、愛していたのは彼女の“処女性”だと、あなたはそうおっしゃりたいんですか?」
「私まだなにも言ってないわさ。あんたはそう思うの?」
 カーグはうなづく。彼の剣幕がすごかったのか、エマは苦笑して肩をすくめ、照れ隠しに水を頼んだ。
「僕は自信がないんです。赤ん坊のころから育ててきたハンナが可愛かった。小さいハンナが可愛かった。それは彼女がずっと子どものままだからじゃないかな。醜い老婆になっても僕は彼女を愛せるかな……」
「そればっかりは自分で答えを出すしかないわ、カーグ。嘘をついて生きるのはよくないんだわ」
 ひとの気持ちも知らないでエマはおかしそうに笑っている。エマが背中をぽんぽん叩くので、カーグは小児性愛だけでなくもっと見知らぬ自分が口から出てくるんじゃないかと心配した。

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