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 ザックさんはわたしをなぶりいたぶり、もてあそんだ。
「人形が人間になりたいだなんて大変おこがましい」
 わたしをきつく抱きながら、そのまま窒息死させようとしている。激しいキスのうちに舌を噛み切って殺そうとしている。ザックさんはわたしに忘れさせまいと、噛みついて刻印するのだ。ピーター・ポルラムは確かに生きていたということ。
 パパを殺しても悪夢は終わらない。むしろ増大してしまったのだ。きっともう永遠に醒めない。
 ハンは円らな瞳を見開いた。テーラー・メードのスーツと一緒に恥も外聞も脱ぎ捨てた生身のザキルカが、嫌というほどの現実を携えて上からのしかかっている。苦しい。生身のハンはひ弱い十三歳の少女だから、ザキルカの全身全霊の呵責には耐え切れなかった。それは愛情に擬態した剥き出しの憎悪だった。
 そのうちザキルカは目の前のハンを忘れて眠りについたが、寝顔が安らかなのはほんのひとときだった。やがてピーターを殺した夜にうなされはじめる。ザキルカの状態がどうであれ、存在そのものがハンにとって拷問のようだった。
 むくりと起き上がると、ハンは手燭を灯してザキルカの枕もとを探った。指先に固いものが当たり、取り出したそれはザキルカが飲んでいたシェリー酒だ。ハンは見よう見まねでコルクを抜いて、ゆっくりとグラスに注いだ。そしてアルコールが波打つのをとろんと眺めた。ハンは酒を飲まない。体質が受け付けないのだ。淑女のふりをしていたハンがワイン・グラスで水やぶどうジュースばかり飲んでいたのはそのためである。しかし、酒が必要な今なら大丈夫かもしれない。祈る気持ちで、ハンはシェリー酒をひとくち流し込んだ。アルコールが喉をつたい、その足跡に熱を生む。ふくよかな甘い香りが鼻に抜け、眩暈を感じたハンはそこでグラスを置いた。これは大人の飲みものだ。ひとくちでじゅうぶんだった。
 まぶたを閉じてハンは体内に染みこんでいく微量の毒、シェリー酒を感じた。――酔いが回ってきたみたい。仕上げにグラスを傾けて、残りの酒を一気に飲み干した。酒に濡れた唇を押さえる。もう片手でシルクのシーツをわしづかみ、ハンはそのまま咳きこんでしまった。急にアルコールなんて入れるから胃がびっくりしたのかもしれない。今にも逆流しそうである。フローリングの床に裸足の指を下ろして、ハンは水差しの前から洗面器をひったくった。真っ赤なリンゴの樹が描かれた間仕切りから遠く離れて、ザキルカの寝息が聞こえなくなったところで洗面器を床に置き、ハンはむせこんだ。ホーロー引きの純白を赤い液体が鮮やかに汚す。
――酔いたいのに、酔えない。なんてみじめなのかしら。
 カーグはハンのことを「娼婦の娘」と呼んだ。ハンと娼婦のイラージェはへその緒で繋がっていたことがあったから、ハンの中に彼女の血が通っていても不思議はなかった。そのときから貴婦人にはなれぬ運命が定められていたのかもしれない。
 頭に血がのぼり、ゆらゆらたちこめてやがて霧散する煙のようにハンの意識は遠のいていく。胃の中はめちゃくちゃだ。よじれて、内臓がはがれて腐って溶けていくようだった。額に脂汗を滲ませながら、ハンは体内から異物を吐ききった。
 うなされる声が遠く聞こえてハンは身震いする。ハンにはザキルカの夢の中がはっきりと感じられた。ポルラム博士を殺した十月二十四日の夜のこと。忘れたくても忘れられない夜。

「手が荒れなくていいよねえ」
 鍋を洗っているハンの後ろをすれ違いざま先輩女中が言った。ハンは返事をしなかった。作業が遅いとか不器用だとか仕事に関係あることなら答えるけれど、今のはハンへの明らかな嫌味だった。今日だけで何回聞かされただろう。冷たい水仕事がこたえる。
 カーグが台所に来たからだ。ザキルカとハンとカーグの三角関係の噂は田園屋敷の女中たちのあいだで瞬く間に広がってしまった。そもそも坊ちゃまの愛人が“子ども”というだけなら、だれも気に留めなかった。“子ども”から男女の関係が想像しにくかったからだ。しかしカーグが出てきたものだから、ハンは途端に倫理的によろしくないものと見做されてしまったのだ。そうでなくとも上流階級からやってきたハンは格好のいじめの対象だったというのに。
「ねえ、あのひともう来ないの?」
 いちもつ含んだような笑みを浮かべる十代後半の女中からハンは目を逸らした。震える声をなんとか整えて、
「来ませんわ」
 と素っ気なく答える。
――カーグはわたしに失望してしまったのだもの。
 連中は良い男ふたりも誑かすハンが気にくわないのだ。
「また来たら、あたしがもらってもいい? かっこいいんだもん」
「ちょっとモニカ。カーグさまはうちが目えつけてたんだよ」
「カーグさまっておっしゃるの? あんた、なんで名前知ってんのさ」
 甘く耳に溶ける名前にとっさにハンは振り向いてしまう。乱れた心音が耳奥で鳴りやまなかった。カーグがだれかのものになるだなんてたえられない! 自分が捨てたくせに――。シンクに重ねた片手鍋がごとりとずれる音で、ハンは冷静さを取り戻した。わたしは殺人の罪とピーター・ポルラムに縛られて生きなければならないのだ。恋人と添い遂げるなんて許されない。幸せになってはならないのだ。
「好きにしてください」
 シンクの淵を後ろ手で握りつぶして、カーグに好意を持つ女中たちを見上げながらハンは心にもない言葉を差し出した。
「ちょっと、なにそのいいかた。うちらがあんたの残り物をもらってるみたいじゃん」
「そんなこと……」
 なにを言っても全部悪く取られてしまう。泥沼だ。どうしたら溺れた泥沼から這い出ることができるのだろう。泥沼を干上がらす晴天はどのように訪れるのだろうか。
「そんなことないですわ」
 ハンは愛想笑いを作ってみるが、効力はなかった。ポルラム邸で化け物扱いされていたころから何も変わらない、とハンは思った。ピーターを殺しても化け物のままなら、殺さなければよかった。『不老不死開発プロジェクト』だって破棄されなければよかったのに。ピーターの監視下で研究所にいたほうがハンは今より大切にされていた気がする。
 でもハンは涙が落ちるのをぐっとこらえた。自分で決めた道じゃないか。ここはわたしが追い求めてきた自由なのだ。
「なにこれ」
 うつむくハンの首筋にあかぎれの手が触れてひやっとした。とっさにハンはその部分を手でかばう。
 ザキルカにつけられたあざだ。周囲の視線がさらに険悪になる。ついに仕事をほっぽり出して、ハンはその場から逃げだした。包丁の切り傷はさっと消えたのに、消えてほしいものは消えてくれなかった。
 女中帽をポケットに突っ込んで外に飛び出すとハンは美味しい空気を胸いっぱいに吸いこんだ。今までまともに息が出来ていなかったのだ。雨が降っているけど構わない。陰気な台所でいじめに遭うより雨に叩かれてびしょ濡れになるほうがずっと楽だった。
 気が付くとハンは厩舎に向かっていた。ザキルカ邸でハンが一番好きなものはポルラム邸から一緒にやってきたペガーズのマルスだった。可愛い三歳馬の男の子。早くマルスに会いたい。そしてどこかへ飛んで行きたかった。
 厩舎に着いたハンはレンガの壁に手をついて弾んだ息を整える。大きな引き戸をノックしてみたが返事はなかった。諦めきれず思いきってドアを引いてみると鍵はかかっていないよう。おそるおそる入ってみる。すると薄暗い中に大きくて硬い箱が鎮座していた。
「車庫なんだわ」
 馬を外した車の列の最後に、外からの淡い光が反射して現れたのは自動車に見える。たぶんそうだ。ピーターがペガーズ馬車を愛していたためにポルラム邸で自動車に縁が無かったハンは、実物を目にして瞳を輝かせた。煙突が特徴的なそれは、元婚約者のピクネシア姫がザキルカにプレゼントした蒸気で走る自動車であった。時代の最先端を行くぜいたく品で、馬の無い車というよりは自家用の蒸気機関車らしい。煙突から黒い煙を吐き、汽笛も鳴るのだとか――ハンは新聞記事を何度も読んでいた――。
 しかし、主人が隠居しているこの邸に自動車の出番なんてあるのだろうか。ぴかぴかに磨かれてあるほど、ハンには虚しく感じられた。
「ハンはんやないどすか」
 振り返るといつのまにかミギワがそばに立っている。先天性色素欠乏症の真っ白な風貌は地下のろうそくの灯りで見るのと違い、ずいぶん生々しかった。両手に泥付きのキャベツや人参が入った籠をぶら下げていたというのもある。
「ミギワさん、どうしてここに?」
「こっちの台詞やねん。車庫があっしの家なんどす、二階のあそこや」
 ミギワがあごで示したので、ハンは木枠が張り巡らされた天井裏のすみっこにドアを見つけた。御者のカバネルが住んでいたところに似ていると思った。
「もしかしてミギワさん、運転手さん」
 ミギワは口角を上げて二回頷いて見せた。
「……に会いにきたの?」
「ちゃうねん! あっしが運転手や」
「うそ!」
 いぶし銀のおじさん運転手ばかり想像していたハンは、驚きを隠せなかった。口をあんぐり開けて、車とミギワを交互に見ている。
「失礼だけど、ミギワさんはお妾さんだとばかり思っていたから。その野菜も似合うし」
 するとミギワは男っぽく爽やかに笑った。
「間違ってへんえ。あっしはどう考えても妾やし、ついさっき野菜掘ってきたところどすわ。……生きていくためよ」
 いびつな共通語の最後に呟いた滑らかなシルゾルト語がミギワの本性らしいと思った。庭師のシャツを泥で汚しているミギワが運転手の立派な制服を着ているところを想像してハンは頷いた。囲い女のミギワにはプライドがあった。そしてハンにも。
 安心したらお腹が鳴った。
「あんさん、ちゃんと食べてはります?」
「食べなくてもシゼンチユリョクでなんとかなるわ。わたしは特殊な人間だから」
「そうは見えへんけど。あんさん、くまがすごいで。貧血もありそう」
 ミギワは甲斐甲斐しくハンの下まぶたをめくって眉根を寄せた。それでも「だいじょうぶよ」と言い張るハンの手を引っ張ってミギワは急な階段をのぼらせる。キャベツのかごをロープであげているミギワにハンは申し訳なさそうに礼を言った。
「お食事いただいたら帰りますわ」
「坊っちゃんのところにまた戻りはるん?」
 少しためらって、ハンはこくりと頷いた。

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