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 雨はいったん止んだが晴れる気配はなく、いまにも降りだしそうだった。翼が湿った風を切り、小さな女中を乗せた白馬は露のついた茂みに着陸した。
 マルスをおとなしくさせて、てっぺんが見えないオークの太い幹から顔を半分だけ出してハンは様子をうかがった。黒いテンガロンハットを目深にかぶったザキルカは、木々からひとつ頭を出した尖塔を目指している。正面に太陽と竜のモチーフが掲げられたその建物は、田園屋敷の近くにある村の教会だった。
 ザキルカが乗ってきた栗毛の馬が草を食んでいる。ハンはザキルカが教会から出てくるのをじっと待った。教会には入らないことにしていた。入ってはいけないような気がするからだ。この不老の身体は神さまがお創りになったのではないのだから。
 罪をきせられたザキルカは教会でなにを祈っているのだろう。神さまにハンのことを告げ口しているのかもしれない。性悪な『キメラ』に誑かされたのだと。強い風がひと吹きすると、木の葉が揺れて雨粒がばさりと落ちた。ハンは女中帽を脱いで冷たい雨粒を払った。そして目深にかぶった。
――ザックさん、パパをころして――

 ハンが旧友ザキルカに出会ったのは十一歳のときだった。今から十年前のことで、ザキルカは二歳年下だから九歳だった。ピーターは弟子をとる性格ではなく伯爵の子どもを預かるのも面倒だったため追い返そうとしたのだが、ザキルカの熱意に負けてそばにいることを許した。その代わりにひとつの難題を突き付けたのだった。
「ハンナの遊び相手になっていただけませんか、ザキルカさま」
 ピーターの真意は分かりかねるが、ザキルカに根を上げさせたいという理由も少しはあったろう。
 ザキルカはハンの友達になろうと努力した。
「きみは『エリクシール』なんだろ? ダイヤモンドがいくら傷つかないからって、ほこりまみれにしておけばくすんでしまうよ」
 まずザキルカは不老不死の霊薬『エリクシール』が粗悪な環境に置かれていることに驚いた。そのころハンはピーター一家と一緒に暮らすことを許されず、離れでカーグと暮らしていたのだ。スカートの裾は擦りきれて薄汚れていたし、厩舎の藁の中で眠るのもへっちゃらだった。
 早速ザキルカはハンのためにドレスを仕立てて、人間より優れた不老人間にふさわしく飾りつけようとした。アニリン・レッドの鮮やかな色をした襟付きのデイドレスだ。それをハンはとても喜び、出来上がりを楽しみにしていた。カーグが縫ってくれるつぎはぎだらけのワンピースも気に入っているが、義妹のユリエが羨ましいハンはやはりドレスに憧れていたのだ。
 仮縫いが終わるとハンは大好きなカーグに見せに行った。きっと喜んでくれるにちがいない。ところがカーグは仮縫いドレス姿のハンを見て、表情を曇らせた。
「カーグ、わたしにドレスを着せたいって言ってたでしょう? 似合うでしょう?」
 錯覚かと思って、ハンはヒナゲシみたいに可憐な裾をもう一度弾ませた。けれども子守のカーグは首を振った。うなだれてひとふさ垂れたハンの髪を直しながら、カーグは優しく言い聞かせた。
「お嬢さま。簡単に手に入れたものは簡単に無くなってしまいますよ」
「どうしてそんないじわる言うの?」
「ザキルカさまに施されるのではなく、ドレスが着られる立場になっていただきたいのです」
「でも、一度だけならよいでしょう?」
 カーグはいい顔をしなかった。ハンはゴム風船のように頬をまん丸くする。
「カーグのけち! ばか!」
 そのとき、カーグは戸惑っていたのだ。ハンとふたりだけだった世界をいきなり鮮やかな赤が侵食してきたのだ。当時はまだ恋敵と呼ぶには幼かったが、カーグはハンと同じ年頃のザキルカを危惧した。そしてなによりカーグには金持ちが信用ならなかった。
「あんなよそものに奪われてたまりますか! ザキルカさまにはなんでもあるじゃないですか。けれど、僕にはハンさましかいないんです」
 ふと目を覚ました深夜、カーグはエマに不安をぶちまけていた。ドレスが仕上がる前にカーグの本心を偶然聞いてしまったハンは、ドレスを諦めることにした。
「ザックさん、ごめんなさい。ドレスじゃペガーズにおもいきり乗れないわ」
「それなら乗馬服をつくろう」
「カーグの服はラシャ地でとってもあたたかいのよ」
 ドレスに未練があったハンの言葉は本心ではなかったが、ザキルカはそのまま受け取り考えを改めてしまった。野生児のようにサルと遊び森に秘密基地まで作ってしまう、それがハン・ヘリオス・リボルダムなのだ。本当に価値のあるものは、ほこりにまみれたって美しさを損ねたりしない。ドレスを着ているきみより、裸足で駆けまわっているきみのほうがずっと素敵だな。
「土の匂いが、雨の音が、こんなにいいものだなんて知らなかった」
 ザキルカはハンと一緒に外で遊ぶことが多くなった。膝をすりむいても高価な服がずぶ濡れになってもへっちゃらだった。これくらい男の子なら当たり前だけど、物心ついたときから家庭教師がつきっきりで絵ばかり描いていたザキルカ坊っちゃんにとっては冒険である。
 しかしザキルカのわんぱくは上流階級の息抜きみたいに見えるし、なまかじりの付け焼刃だ。そして外で遊ぶことしか選択肢の無いハンにとってザキルカのそれは面白くなかった。
 一歳しか違わないのに自分とは境遇が随分違う妹のユリエが羨ましくて、ハンはユリエになりたいと常々思っている。ハンにはユリエを真似る癖があった。ユリエがザキルカにラブレターを手渡して振られたことがあったが、それを見てハンもザキルカにラブレターを書いたことがある。たとえハンが本気であっても、十歳の伯爵令息にとって結婚を意識するラブレターほど不愉快なものはなかった。
「きみもぼくのことを『お金持ちの子ども』だと思っているんだね。ぼくのことを上辺しか見ていないんだね」
 同じ遊びをして身分の差を埋めようとしているザキルカを眺めながら、ハンは心のどこかでそれは無理だと思っている。里親のピーターは弟子のザキルカに対して腫れ物に触るみたいに接するし、カーグはザキルカをよそものだと言って受け入れない。そんな周囲の影響が、特に育ての親カーグの態度がハンにも根付いていた。貴族の息子と化け物は同じ水準にはなれない。永遠に格差があるのだ。
「わたしはドレスが着たいのよ。あなたには離れのすみっこで暮らすわたしたちの気持ちなんてずっと分からないわ、お坊ちゃん」
 衝動的にハンが突き飛ばしても、ザキルカはハンを憎まず、懲りずに友人を続けた。ハンの思想を形成しているのがカーグだと見抜いていたからだ。ザキルカは自然とカーグに近寄らなくなった。ことにピーターがカーグを愛人にしてからはなおのこと軽蔑し、ピーターが廃人になってからは非難した。しかしそれはカーグが第一のハンにとってザキルカとの間に一線を引く要因となってしまう。
 ザキルカはハンの腕を掴んで言った。
「カーグさんは貴女のことなんてどうでもいいんですよ。現に貴女を放り出して、師匠のところに入り浸りじゃないですか」
「あなた、なにも分かってない。カーグはかならず戻ってくるわ」
 ハンはザキルカの腕を振り払った。
 ザックさんはたったひとりの友達だけど、カーグが嫌いだと言うのならわたしも好きにはなれないわ。捕まってしまえばよいのよ。
 親友のザキルカの手を取ってハンは甘く囁いた。満月の澄んだ瞳に涙を浮かべて。
「ザックさん。あなたがわたしの希望の光なら、パパをころしてほしい」

 冷たい風が吹いた。ハンははらりと落ちた後れ毛を女中帽にしまいこんだ。
 ザキルカが教会から出てくるのを察すると、急いでハンはペガーズに乗り翼をはためかせた。マルスは尖塔を見下ろす形で滞空する。
 重たいフロックコートに身を包んだ黒尽くめの青年は木の幹に繋いである愛馬を撫でて、彼の背に飛び乗った。馬で駆けていくザキルカをハンは上空からじっと見つめていた。その姿が見えなくなるまで。
「ザックさん。わたし、カーグの次にザックさんが好きだわ」
 ハンが手綱を引くとペガーズが一声いななき、屋敷へ帰っていくザキルカとは反対の方角へ向きを変えた。小さな女中は振り返り、もう一度ザキルカが消えた森の入り口を眺めた。
――だから、必ず戻ってくるわ。
「ちょっとカーグが見たいだけ。ひと目見るだけよ」
 そう呟いて、ゴシック建築の尖塔をあとにした。
 雨粒がハンの頬をつたい落ち、そこにハンがいた名残をかき消した。

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