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 かつて『エリクシール』だったころは顔を見せるだけで入れたナール研究所だが、価値を失ったハンが入るには敷地を囲う有刺鉄線が邪魔だった。だからと言って下手に上空などうろつけば、撃ち殺されてしまうかもしれない。
 このまま引き返したくないが仕方ない。諦めてマルスを旋回させると、前方から二頭立てのペガーズ馬車がこちらへ向かってやってきた。すれ違うのを待っているハンに気付いた馬車は速度を緩め、少年が窓から顔を出した。
「ちょっと、ねえ、ハンじゃない? 止めて。友だち。知り合い」
 変声期のかすれた声に顔をよく見るとサイ少年ではないか。眼鏡をかけていたのですぐに気付かなかった。サイは真新しい眼鏡のレンズを額へ追いやり、金縁のつるをいじりながらハンをまじまじ見る。
「やっぱりハンだ。女中が空を飛ぶなんてありえないもん。しかもこんな雨のなか」
 サイはナール研究所に住んでいる。つまりこの馬車は研究所へ帰るところなのだ。サイと一緒なら研究所の有刺鉄線も難なく通過できるはず。
「サイちゃん、乗せて」
「えー。どうしよっかなあ」
 ずぶ濡れた貧相な女中を見る先天性色素欠乏症の赤い瞳はひょっとしてラズベリーだろうか。手綱を握る手が雨で滑りそうになり、ハンはしっかりと握りなおす。ザキルカ邸から三十分休みなく飛ばしてきたマルスの体力はそろそろ限界に来ていた。
「わたし濡れているのよ」
「だからじゃん。そのまま帰れば?」
 無いほうが見える気がする眼鏡を正しい位置に装着してサイが窓を閉めようとしたので、ハンは慌てて叫んだ。
「カーグに会いたいの!」
 するとサイは下げかけた窓枠を再び押し上げて、
「いいよ」
 カーグの名を聞くなりサイは顔色を変え、あまり考えずに承諾の返事をした。まだサクランボの砂糖漬けやうずまきの棒付きキャンディーを与えていないのに、えらく上機嫌である。
 ハンはまばたきして、
「やけに素直じゃない」
「だって最近のカーグさんの荒みようときたら。励ましてやってよ」
 この前のことが原因かもしれない、とハンはすぐ直感した。ザックさんがわたしを恋人みたいに扱ったから。わたしを愛しているなんて、つゆほども思っていないくせに。だから必要以上にカーグを傷つけてしまったのだ。
 二頭のペガーズの後ろにマルスをつないで、ハンは馬車に乗りこんだ。ふたたび離陸する際、ハンは縦に揺さぶられて端っこの手すりにつかまった。馬車は真っ直ぐカーグに向かって進んでいく。もう二、三分で着いてしまうだろう。
「カーグ、そんなに悪いの?」
 眉をひそめてハンが訊くと、サイは両肩をすくめた。ため息をつきながら、「ハンが来れば治るかもしれない」と言う。
「わたしにできることならなんでもするわ」
 今の時期は日が沈むのが遅く、午後六時といえどもまだ雲間が薄明るい。とはいえカーグが中庭のパブで一杯やっているのは心配だった。研究所という場所柄、お茶やコーヒーなどアルコールの入っていない飲みものも充実しており、分厚い本片手に書類を作成する研究者の姿がちらほら見受けられる。昼間にはサイみたいに中人式を終えたばかりのような若い研究者の姿もあり、そこはパブと言うより大衆食堂だ。
 しかし、カーグの場合は不健康に見えた。相変わらずすっきりしない髪の毛で、耳はもうすっかり隠れている。伸びると丸まってくるからと、日頃から短くしているカーグがこんなにヒツジみたいにもさもさしてくれば必ずなにかがあった。
 カーグはビールのグラス片手に開いた本のページをときおり気だるそうにめくった。まばたきする銀色のまつ毛は天井から吊るされたランプの光をうけてつややかにきらめいた。気のせいかエメラルドの瞳は潤んでいるようだった。
「カーグ。なにを読んでるの?」
 びっくりしてカーグはくたびれた黒革表紙のその本をまず閉じた。本の中身が気になったが、それよりもハンの注意をひいたのはカーグが右手の甲に包帯を巻いていることだった。よく見るとじんわり滲んだ血のあとが茶色くなっている。
「どうしたの……」
 ハンが包帯に触れようとすると、本を抱えてカーグは席を立った。背の無い木椅子が音を立てて絨毯の上に倒れたがそのままに、カーグは客席を縫って走り出した。出口に向かって。
「カーグ!」
「お客さん、お会計がまだですよ!」
「ハン追いかけて。ここはボクが払っとくから」
 そうこうしているうちにカーグは外に飛び出してしまった。パブのウエイターに紙幣を見せるサイに礼を言って、ハンもカーグを追いかける。帽子もかぶらず白シャツのボタン一個分襟元がはだけた部屋着姿の美男子と、それを追いかけるエプロン姿の女中とおぼしき少女。錬金術の研究所に似つかわしくないふたりの距離は一向に縮まらなかった。それどころかカーグの脚が長いから、その差は広がっていくばかりである。
 カーグが柵を飛び越えるとハンもやっぱり飛び越える。いつのまにか女中帽は無くなり、薔薇の木をくぐったためかフリルのエプロンには穴が開いていた。でもそんなこと気にしていられない。カーグのことが先決である。
「カーグ!」
 ペガーズ厩舎前の石畳につまづいて、ハンは転んでしまった。起きあがろうとするハンにカーグは黙って手を差し伸べた。しかしその手はすぐ離されて、カーグは行ってしまおうとする。あわててハンはカーグの背中に張っている暗赤色のズボン吊りをひっぱった。するとようやくカーグは観念したのだった。
「カーグ、その手はどうしたの」
「どうもしない」
 カーグはまた目を逸らした。手に巻いた包帯を労わるようにさすりながら。
「おねがい、話して。わたしにできることがあったらなんでもするから」
 すると返事の代わりにカーグは包帯の右手で厩舎の壁を殴った。骨が潰れるような音にハンの背筋は凍りつき、一歩後ずさり、どうしたものかとおそるおそるカーグを見上げる。
「阿片がほしい。ハンナ、こっそり持ってくることはできないか?」
 包帯にそっとくちづけて、カーグは刺すようにハンを見た。ハンは瞳を大きく見開いて息を止めた。心臓も止まりかけていた。くだした決断をカーグに知られるのが怖かった。
 ピーターが阿片を欲しがれば探し出して渡すことにしていた。そのほうが互いにとって楽だったからだ。ピーターは禁断症状の苦しみを一時的に和らげることができるし、ハンは滅茶苦茶に罵倒されず、なによりピーターに嫌われずに済んだ。
 カーグのためを思うなら、渡してはいけない。カーグはハンの襟ぐりをつかんでレンガの壁におしつけた。カーグの目は血走っているし、ハンを拘束する手は震えている。これ以上、カーグを苦しめてはいけなかった。
 しかし決断できなかった。ただでさえザキルカの件で遠くなったカーグにこれ以上嫌われたくなかった。
 するとそんなハンの心の迷いを見透かしたのか、カーグはハンを突き放して解放した。ハンはずるずるとその場に座り込んだ。
「ごめんなさい、カーグ。あなたは苦しんでいるのに」
「なんで来たんだ、ハンナ。冷やかしにきたのか」
「いいえ……いいえ。あなたの痛みを分かちあえたら」
 ハンがすすり泣いていると、カーグもしゃがんでハンに目線を合わせた。そしてハンのほっぺたを手のひらで包み、ハンをじっと見つめた。骨ばった固い指があどけない顔に食い込む。伏し目がちにカーグはくちびるをハンの耳もとへ寄せると、かすれた声で囁いた。
「きみみたいに不老になれたら」
 カーグの声を耳に残しながら、ハンはカーグを見つめた。陶芸家が渾身を込めて作りあげたカーグの綺麗な無表情が真っ直ぐ見つめているのは紛れもなくハンだった。ハンは青ざめて両手で口もとをおさえた。
 人々は歳を取らないハンを「化け物」と呼んだ。信じていたカーグに思いもよらない言葉をかけられ、ハンの目の前は暗くなった。
――プロポーズしたときもそんな風に思っていたの?
――ハンナはね、跡が残らないんだ――
 まばたきすると辛い涙が一滴落ちて、石畳に濃い灰色の染みを二個三個作っていく。
「ひどい」
「きみは阿片にも水銀にも侵されない不老人間だ。そんなきみに無様な僕の気持ちが分かるものか」
 立ち上がってカーグは険しい表情のまま後ずさった。
「僕を見ないでくれ。見るんじゃない!」
 カーグは再び走って逃げてしまったが、ハンは追いかけることができなかった。――立ちあがることすら、もうできそうもない。そのままうずくまり、ハンは両腕で頭をかかえこんだ。

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