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 女中服を着た子どもが水たまりに映りこむのを見て、なんてみすぼらしいんだろうとハンは思った。泥や草花の汁で薄汚れた麻のエプロンを脱いで片手に持ち、ハンは厩舎に続く石畳の広場をあてもなくさまよった。やがて、ペガーズを厩舎に帰しにきたシルクハットの男性がハンを見つけて声をかけた。
「きみはハンだね。どうして研究所の中にいるんだい。だれが連れてきたんだ」
 その後に「『不老不死開発プロジェクト』は廃止されたのに」という呟きが続いて、ハンはうつむいた。
「エマ先生に用事があったのだけど、留守みたいなので帰ります」
「エマ? ホールデン博士だろ? ちょうど帰ってきたところさ」
 おじさんが腕をぐいぐい引っ張るので、ハンは苦笑いして首を振った。
「わたしそろそろお家に帰らなくちゃ」
「待て待て。私はホールデン博士の御者として、港からペガーズ馬車を飛ばしてきたんだよ」
 御者はハンの背を押して強引に連れていった。悪いひとではなさそうだ。歩いているうちに涙で濡れた顔は乾いてきた。
「ほら。きっと車庫のあたりで酔いを醒ましてるだろうと思った」
 腰まである白髪を結い上げず、ズボンとスカートの合いの子であるキュロットスカートを履く、といった反骨精神の塊みたいな恰好をしているエマだが、御者が指差した先にいる彼女は肌の露出が少ない禁欲的な黒いワンピースに身を包んでいた。気品あるレースのハイ・ネックからのぞく淑女のうなじは、エマのイメージからかけ離れている。
「エマ先生!」
「あら、その声はハンナじゃない」
 振り向いたエマはタッセル飾りのついた丸眼鏡のつるをつまんで位置を直し、手術痕が走る青い顔をくしゃっとさせた。笑うと目尻にしわが刻まれる。いつものエマの仕草だが、飾り気のない服と喪章のついた帽子が彼女をより不健康に見せていた。
「先生、お葬式に行ってきたの?」
 錬金術が発達して蒸気機関が流行っても結核や気管支炎は無くならず、人々が誰かの葬式に出向くのは珍しいことではない。そのため、ハンも世間話のつもりでエマに訊いたのだ。
「ええ、息子の葬式だわ。母親より先に死なれちゃった」
「ムスコ?」
「七十三歳のおじいちゃんよ。心臓病でね。働きすぎだわ」
 ハンは耳を疑った。エマがしんみりしている理由が分かり納得したが、少し裏切られたようなさみしい気持ちになった。エマとは二十一年の付き合いになるが、息子の存在どころか彼女が結婚していたなんてひとことも聞いていなかった。そういえば幼少のハンをあやす仕草が母親っぽかったな、とハンは当時の記憶をひねり出してみる。
「知らなかったわ。エマ先生が母親をしていたなんて」
「そうよー、三人の息子の母親だったのよ。普通に結婚をして、入った家にも恵まれていたわ。半世紀も前の古い話だけどね」
「すてきなお話。うらやましいわ……」
 カビが生えた木製のドアの前でハンは黙りこんだ。はっとして口角を上げたが緩んだ涙腺をエマは見逃さなかった。絹のハンカチを出して涙を拭いてやりながら、
「私は息子より長生きしちゃった悪い母親よ。あんたに子どもは望めないけど、養母にはなれる。良い母親になんなさい」
 ハンはこくりとうなづいた。涙で揺らぐガス灯には蛾が群がっていた。そしてまた泣きだした。
「わたしどう見ても子どもだもの。子どもは母親になれないわ。カーグだってわたしから逃げた。だれもかれも逃げていくのよ」
 本物の子どもみたいにハンは鼻をすすった。それを見てエマはおかしそうに笑った。
「そんなにぐちぐちしてたら誰だって逃げるでしょうよ。ハンナ、そのみすぼらしいねずみ色の服はなに? 二週間後、おしゃれしてもう一度来なさいよ。いいもの見せてあげるから」
 ハンはみすぼらしい服とエマの顔を交互に見た。
「それはなあに?」
「ひ・み・つ」
 エマは人差し指でハンの赤い鼻を突っついた。
 ザキルカ邸から逃げてきたハンは結局カーグという頼みの綱を掴むことは出来なかったが、その代りに母親の温もりを胸に包んで帰ることにした。――生きていくために。

 ナール研究所の煙突から絶え間なく煙が立ちのぼっている。そのため祭りの夜に窓を開けてもぼんやり霧がかかったようだった。生ぬるい夜風に当たりながら、カーグは紫煙をくゆらせる。鼻先に前髪が見えてうざったい。はねた毛先を人差し指でくるくる絡ませていると、霧の向こうから軽やかなハンの笑い声が聞こえたような気がした。澄んだ水面を裸足でぱしゃぱしゃ崩して、弾けるように笑うハンナ。肩の上で揺れる二本のお下げが春の陽光に透けた。それをカーグは捕まえようと思った。しかし彼の手はハンの真っ白なワンピースをすり抜けて空を切る。ハンには実体が無かったのだ。そんなはずはない。今も猫に付けた鈴みたいにさり気なく、優しい声で「カーグ」と呼んでいるのだ。しかし指はハンをすり抜けてしまう。どうしてもハンに触れられないカーグは両膝をついて黒い水面に浸った。ハンはつやつやした長い毛並みのペガーズにまたがり、たんぽぽの綿毛のように向こうの空へ飛んで行ってしまった。
 カーグは窓の外の薄暗がりに伸ばしていた手を引っ込めた。
 ハンは泣いていた。泣かせてしまった。「不老人間」だなんて、自分が最も軽蔑する罵り言葉が口をついて出てきてしまい、ハンの繊細な心に傷を負わせてしまった。
 カーグは伸び放題のヒツジみたいに重たい頭を指でくしゃりと潰した。やるせなく呻いていると、灰皿の隣に本の山がずんと置かれた。
「ヒマなら出産の準備手伝ってよ。これ全部読んでいいから」
 おでこに眼鏡をかけたサイ少年がありあまる元気で机を叩いたのが、ぼんやりした頭には刺激である。横目で本の題字をざっと読むと、「角の生えた馬『リコルヌ』を求めて」、「リコルヌとはなにか」、「ペガーズとリコルヌ徹底比較」、「リコルヌの可能性」といった顔ぶれだ。どれも錬金術師が愛読している専門書である。そういえばピーターの本棚で見た気がする。
「読めるわけないだろ……」
 二日酔いがひどくて頭痛にさいなまれる酒飲みみたいな、地の底から這い出たような生気の無い声を出して、カーグはまた机に顔を突っ伏した。
「ほんと似合わないよねえ。悪ぶった態度もその薄いヒゲも。紳士っぽい格好のほうがまだまし」
 エマの助手は中性的なハスキー・ボイスでずけずけと物を言った。そして相当お節介だった。うざったいので振り払うのだが、ちょうどカーグのお腹に隙間風が吹いたころに温かいミルクを持ってきてくれるのだ。エマとサイはふたりとも、投げやりの病人生活を送るカーグを見捨てずに毎日声をかけた。エマが留守にしているときはサイがぶつくさ言いながらカーグの面倒を見ていた。そのおかげでカーグのひねくれた気持ちは徐々に快方へ向かっていた。浮浪者のように汚い言葉を使い無精ひげを生やしてみたけど、六歳からお屋敷勤めをしているカーグである、性に合わない非行にもそろそろ飽きてきた。
「ハンのためにも散髪してヒゲをそったら?」
 横目でおかっぱ髪のサイをちらりと見て、カーグは口をへの字に曲げた。サイもエマもふたことめには必ずハンを持ち出した。お節介なふたりの保護者は、ハンが病めるカーグの薬になると信じて疑わなかった。
 確かに今までカーグに生きる目的を与えてきたのはハンの存在だった。まっとうとは言えないかもしれないけど、それでも今よりは踏み外さないでいられた。守らなくてはと思っていたハンだが、守られていたのは自分だった。同性愛と阿片に飲まれて自分を見失ったカーグには、まだ帰る場所がある。それがハンの存在だった。
 小児性愛者だから、不老人間だから、ハンを好きになったわけではない。ピーターを真似るザキルカはそうかもしれないが、カーグの愛はそんな形式的なものではない。少なくとも自分やピーターのハンへのまなこは二十年をかけた深いもの。良い部分も悪い部分もひっくるめてハンが好きなのだ。
 しかしカーグは自分の心とそれを見抜くお節介な保護者たちに、素直になれなかった。ハンと離れて療養する今は、いわば「人生の骨折」の時期である。じっくり考えて心と体を整え直す必要があった。処置が雑であるならその部分は弱点となり、また骨折してしまうだろうから。

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