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 ザキルカからプレゼントされた衣裳部屋の鍵を開けたハンは愕然とした。
 そこには喪服の子ども用ワンピースばかり吊るされていて、選んだザキルカの趣味に悪意を感じてしまう。かといって女中をするためにもらった古着は――客室女中のそれならまだしも流し場用なので――どれもぱっとせず、お洒落には程遠かった。ハンはため息をついた。衣裳部屋の服を着たって女中の服を着たって、どちらもザキルカの意図である。それならばと観念してハンは子ども用の服を物色しはじめた。
 女主人をやるまで二十歳になってもひねくれて着続けていたため、ハンは子ども服に抵抗がなかった。それにザキルカが用意したものはどれも一流品で、サイズも仕立てたようにぴったりで、申し分がなかった。しかし、ハンの心はもう子どもでいる気が無いのだ。ハンはザキルカたちが望むような「永遠の子ども」なんかじゃない。彼女はせめてもの抵抗にデザインが一番シンプルなやつを選びだして、姿見で合わせてみた。
 エマと約束した日、ハンは黒のワンピースをレース襟で清楚に仕上げて姿見の前をくるりと回った。ふたつのお下げは小さく丸められており、子どもみたいにぶらぶら揺れたりしない。すっきりしたうなじを窓からの風がくすぐった。
「カーグさんのところに行くのか?」
 ハンは足を止めた。白衣姿のザキルカがドアを背に通せん坊している。ハンは足踏みした。ついさっきピーターの具合を見に出ていったと思っていたのだが。
 気だるそうに腕を組みながら、ザキルカは浮足立つハンに顔をしかめた。
「そうやって、結局はカーグさんのもとへ行ってしまうんだな。俺を置いて」
「ごめんなさい」
 頭を下げて先を急ごうとするハンにザキルカはうつむいたままだ。普段なら小さくて弱いハンを力づくでベッドに押し倒したりするのだが、今朝のザキルカはすでに諦めていた。思いきって廊下に出たものの、ハンは後ろ髪を引っ張られる。
「心配しないで、ザックさん。ちょっとエマ先生のところへ遊びに行ってくるだけよ」
「ハンナ……待てよ」
 いつも挑発的な瑠璃色の瞳は戸惑い揺らいでいた。悪夢は夜明けとともに醒めたはずなのに、引きとめるその声は眠りにつく前にハンを必要とするおびえたザキルカだった。ハンは握ったドアノブを手放すのをためらっている。しかし今出ていけないのなら一生鳥籠の中で暮らしていく気がして、ドアの隙間を小さくした。
「わたしたちのピーター・ポルラムを忘れたりはしないわ」
「ハンナ」
 ドアを閉めるとザキルカの顔は見えなくなり、そのままハンは早足で屋敷を飛び出した。愛馬のマルスに鞍をつけて下着が見えるのも気にせずにまたがって、もやがかかった紫色の空へ飛び出した。朝の光が庭園の緑の迷路を厳かに照らしている。マルスの横腹を蹴ると、あごにくくりつけたボンネットの淡いリボンは清々しい自由の風に踊った。
 わたしはカーグではなくエマに会いに行くのだ。足もとに手紙を忍び込ませているけど、あくまでエマに会いに行くのだ。
 研究所は始業したばかりなので、煙突の周囲を飛んでもまだ目には染みなかった。レンガ造りの建物の前でハンはマルスを急降下させて、待ち合わせた宿屋でサイの馬車に乗り込む。二頭立ての箱馬車は砂利の多い並木道を一気に駆け抜けた。その先にそびえるレンガ造りの建物にはカーグが暮らしている。
 その日のナール研究所内はそわそわ落ち着きがなくどこか浮足立っていた。すれ違う研究者の数はいつもより多く、だれもがかつては注視したハンなど気にも留めないのだった。ぶかぶかの白衣を着たサイに連れられて廊下を歩きながら、ハンは閉じられた無機質なドアを順々に見ていった。
「なんだかいやな予感がするわ」
「女の勘?」
 サイはくすくす笑った。なにか隠している。楽しいいたずらを仕掛けたような目つきである。今日はきっとカーグに会えるだろう。ハンは口角を上げた。
 それは別にして、鳥肌が立ち指先が震える感じが気になっているのだ。
「『キメラ』の勘ってやつよ」
 自身を生み出した錬金炉の存在をハンは敏感に感じ取れた。どこかの研究室では錬金炉がなにかを飲み込んで溶かして吐き出すところだろう。ひとつの生命が死に、ひとつの生命が誕生する瞬間。それを思うとハンの心臓はきりきり締め付けられるのだった。

 カーグは横たわる白馬の膨れた腹をさすっていた。今日はエマが担当するクリスタル・リコルヌ――水晶の角が生えた馬――二世出産の日である。クリスタル・リコルヌはまだ自然分娩に成功していない種で、この母親――名前をヴルツェルと言った――のお産が成功すればナール研究所の快挙になる。
 ヴルツェルの腹の中身が動くのを感じて、カーグの胸は高鳴った。そこには新しい生命が宿っていた。もうすぐ生まれてくる命だ。こうしてさすっていると、幼少のころ手伝った豚の出産が思い出された。母親は陣痛に耐えて子どもを産み落とす。母親こそ最大の愛の形ではなかろうか。カーグは懐がじんわり温かくなるのを感じた。自分も母親みたいに純粋な本能でハンを愛せたらいいのに。いまの優しい気持ちのままでハンに会いたい。
 クリスタル・リコルヌの出産が近づいているから、普段殺伐とした研究所も穏やかな気配に満ちていた。ひとはみな母親から生まれたのだ。喧嘩したハンとの再会に望ましいイベントを用意してくれたエマにカーグは感謝した。ハンは子どもが好き。だから、きっと上手く行く。
 もういちどヴルツェルの腹が動いたとき、カーグはピーターに下腹部を確かめられたことを思い出した。なんでこんなこと思い出してしまったんだろう。ピーターの手の平はカーグの中に子宮を探したが、当然見つからなかった。
――お前は子を孕んだりしない――
 小首を傾げながら「ぼくは男だよ、あたりまえでしょう?」と返すと、叔父は「安心する」と微笑した。
 カーグは出産直前の母馬のそばにいるのが耐えられなくなりカーテンを引いて、静かに鼻から息を吸いあげ、胸を膨らまし、それを細くゆっくりと吐ききった。
 ピーターが小さな子どもを愛でるのは、彼らが成人女性よりけがれておらず弱い立場にあるから。浮気の跡が残らないから。それはそのままハンナの特徴に繋がっていたし。だから「小児性愛者」なのだけど、そんな言葉で片づけられるほど叔父の心の病は単純じゃない。
 両手で顔を覆ってカーグはその場に崩れた。指の間から短い前髪が思い思いにはみだしている。
 青春を屈折させた十八歳の叔父は幼いすべすべした肌に唇をつけて丁寧に吸った。女を愛撫するのと同様に、誠意を持って叔父は子どもを犯したのだ。
――「犯した」?
 ふとカーグはその言葉に違和感を覚えた。ピーターにしてみれば虐待しているつもりはなかっただろう。父親になりたくないピーターにとって、六歳のカーグは精神安定剤だった、としたら? ピーターは子を孕まない性的対象を求めていた。それをたまたまカーグに見出しただけ――研究所の大事な預かり物のハンに手を出すわけにもいかなかったから。
 しかしカーグはいつまでも幼児でいられない。ピーターが天使のように可愛らしいカーグを愛玩できたのは、ほんの数年であった。やがて性別が曖昧だったカーグが「男」に近づいてくると、ピーターはカーグを呆気なく捨ててしまった。その後、ピーターは性的対象を子どものなかに求めるようになり、ポルラム邸に十三歳未満の奴隷の子が多く連れてこられた。もちろんそのときもケイトは子どもに浮気する夫を持った哀れな妻であり続けた。誰もが思った。ピーター・ポルラムはやはり「小児性愛者」で、子どもでしか癒されないのだと。
 でもピーターはあくまで子を孕んだ人間を嫌悪していただけだ。
 いつか、間違いで妊娠してしまった女中を呼び出してひどく罵ったことがあった。ピーターは女中の剥き出しになった腹をさすりながら、まがまがしく説いて伏せた。
――これは罪の刻印だ――
 女中は「結婚前の間違い」を悔いたが、ピーターの関心はそれではなく、もっぱら「子宮の中身」にあった。
 堕胎するにせよ、父無し子を産むにせよ、お前は救われない。泣いていてもお前の腹は膨らむばかりだ。罪の子め。
 子を孕みさえしなければよかった! だからピーターは十九歳になったカーグを愛人として受け入れることができた。ちなみにピーターは「同性愛者」でもない。ピーターの愛は「同性愛」とも「小児性愛」とも違うものだった。逃げていたのだ。子を孕める人間――「女」から。カーグは女のように抱いても決して孕まない。しかし女のように自分を求めてくれる。ピーターにとって、子どもの柔らかな肌も、男の平らかな広い胸も、どれもこれも代替品だった。愛の行為で子を孕まなければよかった。
「かわいそうな叔父さん。僕は目が覚めたよ」
 でも、なぜ叔父さんはハンナに自分の母親エリザベスの面影を与えたんだ。ハンナから「母親」になる機会を奪っておきながら、どうして応接間の聖母はハンナにそっくりなんだ?
「ヴルツェル! がんばって!」
 無邪気な鈴の音色がカーグの耳をとんとんと指で叩いた。カーグはポットの小さな鏡面に映った自分の短い前髪をつまんだ。
――僕はハンナを愛している。
「あんたの母親もこんな風にしてあんたを産んだんだわさ」
「母親って? 娼婦のイラージェのこと?」
「そうよ。イラージェのお腹は大きかったわさ。彼女はあんたを『ハン』――『ハンナ』の『ハン』よ――と名付けたとき、自分の命は長くないと知っていた。それでも産み落としたの。愛していたからよ」
「そんなわけないじゃない! 『不老不死開発プロジェクト』で大きくなったお腹よ。愛せるわけがないじゃない!」
 耳を澄ませていたカーグは首を振った。愛という感情は言葉では説明できない。目には見えない。だから推測するしかないのだけど……。浮いた前髪をなでつけてからカーグはドアノブをひねった。そこには鉄でできた大きな錬金炉があり、その下で危うそうにぺたりと座っているハンがこちらを見上げていた。『キメラ』を生み出す錬金炉は実際ハンにとっての胎内である。しかしカーグはハンが涙から生まれたのだと信じて疑わなかった。
「ハンナ……まだまにあうかい」
「ええ。カーグ」
 カーグは今日のために短くしたこそばゆい髪をかきあげた。
「ハンナ、きみに言っておきたいことがある。僕の意見だ」

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