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 妊婦の陣痛が酷くなってきたので、エマはふたりを産室から追い出した。
 カーグはハンを連れて階段をくだっていった。そのとき手を差し伸べてくれたらハンは喜んで握り返したのに、カーグにはまだ勇気がなかった。ふたりは話をするためにエマの研究室に入った。エマたちがリコルヌの出産にかかりきりなので、関係ない書類が山積した彼女の研究室にはだれも入ってくる心配がなかった。
 砂糖多めの紅茶をハンに作って渡すと、カーグは頭をかいた。伸びて野暮ったくなっていたカーグの髪はさっぱり切り揃えられていた。脱ぎかけのようにしわだらけだったシャツも、懐かしい三つ揃いに変わっている。容姿の変化からして、自分を罵り化け物扱いしたカーグは皮を脱ぎ捨てたのだ、とハンは淡く期待した。視界いっぱいにカーグを見つめて、仲直りの言葉をハンは辛抱強く待っていた。
 けれどなかなか言い出さない。青年はプラチナブロンドの柳眉を寄せた。月夜の露みたいに物憂げな長い睫毛をしばたたかせて、カーグは思い煩っているようだった。
 ハンがブーツの履き口に忍ばせてある手紙を意識したとき、ようやくカーグは意を決した。
「ハンナ、きみは……ユリエさまが産まれる前に叔父が家出したことを知っているかい?」
 早口でもひっくり返ってもいないその穏やかなバリトンは心地よくハンの耳に流れたが、半音ずれていて意味深長な余韻を残した。
「知らないわ。それに信じられない」とハンは首を振った。
「ほんとうのことだよ。叔父は初産が不安な奥さまを屋敷に置き去りにして行方をくらましたんだ」
 勲爵士ピーターの家庭が最初から存在しない幻だったなんて、信じたくない。ハンがユリエの頭にビスクドールをぶつけて初めて壊した家庭だと思っていたが、すでに壊れていただなんて。いつから? ケイトがラファルグを連れてきたとき? ピーターが子どもを買いあさっていたころ? 甥のカーグに手を出したから? それらは全部結果に過ぎない。それらには根源があった。それはわたしだ。どう考えてみても。ハンは物心つく前から夫妻に隔離されていた。子宝に恵まれる前の夫妻には障害があったのだ。
「パパがわたしを引き取ったからでしょう」
 つらい事実を蒸し返したりなんかして、カーグは「化け物」の続きが言いたいのか。ハンはふてくされて、そっぽを向いた。
 ティー・カップを置いてカーグは脚を組みなおした。
「きみのせいじゃない」
 気まずい間を開けてから発せられたのはくぐもった、けれども真剣な声だった。カーグの目はハンだけに注がれており、逸らせなかった。
「たしかに新婚家庭に赤ん坊のきみがいたせいかもしれない。でも、それ以前の問題だったとしたら? 上流階級にはよくあることだ。貧困層出身の叔父がきみを作った功労者にふさわしく、社交界で認めてもらうためだけに奥さまと結婚したのなら……ふたりには最初から愛が無かったと言えるだろう」
 おもむろにハンは両腕を抱きしめた。一家から隔離されて育ったハンが原因ではないとどうして言い切れよう。
――お前さえいなかったら!――
 ピーターとケイトに憎まれ虐待された日々を思い出して、ハンは目を伏せた。ブーツの足が宙ぶらりん。カーグは押し切るように強く続けた。
「僕はきみが愛されていなかったとは思わない。僕がここへ来たとき、叔父さんはきみに会うことを許されなかったんだ。どんなにつらかったことだろう」
 ハンは弾みで両足をついて立ち上がった。
「そんなはずないわ!」
「あるよ」
 カーグはハンの首もとに付いている小さなリボンを触って形を整えた。するとハンの興奮はとたんに和らぎ、愛のある優しい仕草に懐かしさを覚えるのだった。子守で兄で家庭教師で、夫であるカーグの言動はとても正しく聞こえる。
 紅茶の匂いをかいで、カーグは目を細めながら、
「叔父が身重のケイトさまから逃げたのは、お腹の大きなイラージェが焼き付いているからじゃないかなあ」
「イラージェ」
 ハンは目を見開いて、軽蔑する産みの母の名を繰り返した。
「パパは行きずりの娼婦だと言っていたわ。それこそハエを追い払うみたいに、なんの感情も持っていなかったはずよ」
「叔父は“母親”に神秘を感じていたんだ。とりわけ妊婦にね。それに、お腹の大きなイラージェを見て『行きずりの娼婦』だなんて思えるだろうか?」
 惑わせる甘いささやきにハンは首を何度も振った。
「パパは研究者よ。イラージェとわたしを実験動物としてしか見ていないわ」
「きみは阿片に溺れながら同性愛の罪を犯した叔父を研究者だと思っているのかい?」
「もちろんよ」
 カーグは少し考えてから、ハンを説き伏せようと前のめりになった。端正な顔が近くなりハンはどきどきしながら身構える。カーグはまばたきを一回して、
「叔父はイラージェを恐れていた。それは娼婦ではなく妊婦のイラージェのことだ。つまりきみを身籠った“母親”を恐れていた。彼女の大きな腹が恐ろしくなった。――彼女をこんな姿にしたことを悔いた」
「悔いた?」
「そう、加害者として罪の意識を感じた」
 そんな美しい話があるわけない。ハンは自嘲気味に鼻で笑った。
「あなたの推測はもっともらしいわ、カーグ。でもピーター・ポルラムはイラージェなんかにほだされない。博士は実験を最後までやり遂げてイラージェを始末したじゃない」
「命令されて仕方なくだ」
「パパがそう言ったの?」
「……そうだよ」
 正直なカーグはぎこちなく答えた。あいまいなカーグの態度がハンには気にくわなかった。
「うそをついてもばればれだわ、カーグ。パパは『一撃で仕留めた』って話していたのよ。それで死ぬ間際のイラージェの目の色が焼き付いて離れない。頭から消そうとやっきになっていたのよ。でもわたしがいるかぎりイラージェの亡霊はパパにまとわりつくのよ」
「きみは被害妄想が過ぎる。ピーター・ポルラムの一面しか知らないからだよ」
「どうしてパパの愛人だったことをわざわざ思い出させるの、カーグ? わたしを憎んだパパに愛されたからって、優越感にひたりたいのかしら」
 一緒になってピーターを非難してほしいのに、カーグはかつての愛人を憎み切れないのだ。最後には弁解してしまう。
「ハンナ!」
 そんな男を愛したわたしが愚かだった。わたしの愛はカーグには無力なのだろうか。カーグはハンが好きだけど、「叔父さん」のことも大好きなのだ。だからカーグとは分かりあえない。カーグに振り回されるのは、もうやめにしたかった。
「わたしはなにもわるくないわ! ……帰るわ。子どもだましのあめ玉なんかうんざりよ」
――さよなら。
 カーグの優しさがハンを醜くした。甘えても裏切っても振り払っても、カーグはいつでもハンを両手で受け止めてくれるのに、そんなカーグにつらい言葉なんか浴びせたりしてわたしはなんてひどい女だろう。でもピーターから愛されなかった憎しみのほうが根深いから、ハンの口は取り返しのつかないところまで暴言を吐いてしまう。気がついたときには、もう遅いのに。
 ハンはカーグに背を向けた。
 また逃げるの? そうよ。わたしはカーグにふさわしくない。わたしは被害妄想の過ぎる陰気な女だもの。カーグの光はまぶしいけれど、わたしの闇はそれ以上にやっかいだからきっと照らしだせない。
 ハンは涙を見せずにカーグの前から存在を消し去ってみせるつもりだ。そのためには――
「はなして」
 カーグがハンの腕をつかむ。仲直りできる最後のチャンスだった。しかしそれを速やかに振り払わねば、ハンはおさまらなかった。
「どんなに絶望的でも、証明してみせるよ!」
 全速力で走って飛び出し、ハンは階段を駆けあがった。弾んだ息が整うまで追いかけてくるカーグを待っていたが、彼は来なかった。
 ピーターがハンを愛していたとカーグは嘘をついた。それは良かれと思ってついた嘘だった。だって、ハンは養父に愛されたかった。愛されていたなら、人生は百八十度変わっていただろう。――愛されていたなら、殺したりしなかった!

 『親愛なるカーグへ
 わたし、本当はあなたを嫌いになったことなんて一度もないのよ。あなただけをずっと愛しているわ。
 一時の気の迷いからあなたを捨ててしまった自分を後悔しているわ。
 遠くへ行かないで。愛想を尽かさないで。わたしを嫌いにならないで。
 でもまだ会えないの。ごめんなさい。わたしがパパを殺してしまったからよ。捕まればわたしはきっと死刑だわ。永遠に会えなくなる。だからザックさんに協力してもらって、捕まらない方法を考えているのよ。
 あなたの病気が治ったころにはきっと、また一緒に暮らせると思うわ。それまではそっとしておいてください。でもわたしを信じて。おねがい。
 あなたの幸せをいつも願っています。
 愛をこめて。ハンより』

 カーグに渡したかった手紙は最後までハンの編み上げブーツに挟まったままだった。
 ザキルカの寝室で完全に燃やしきると、ハンはよそ行き着のままベッドに倒れ込み枕に顔を押しつけて泣いた。
「ハンナ、ここにいたのか」
 ハンは寝ころんだままで返事をしない。いまはザキルカの顔なんて見たくなかった。
「『キメラ』の容態が悪くなった」
 天蓋のカーテンを乱暴に開いてハンを仰向けにしたザキルカは息を切らしていた。そのままハンの胸元にしがみついて、力無く沈み込んだ。ザキルカの異変に気がついて、ハンはようやく彼の言葉を理解したのだった。

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