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 まぶたにかかる髪の毛をそうっとかき分ける。気難しそうな額にリンネルのハンカチをすべらせて滲む汗を拭ってやる。そのついでに血の気が無い頬に手の甲を当ててひんやりしていることを、ハンは何度も確認して納得いかないのだった。
 ピーターは細く途切れそうな呼吸を繰り返し、安らかとはいえない表情で眠っている。悪夢を見ているのなら飛び起きて、どういう内容だったのか話してほしい。しかしピーターにはまだそれができなかった。彼は不完全な生き物だったから。
 うまく食事が取れなくなったピーターは目に見える形で痩せていった。もう限界だとザキルカは言った。長くは持たないのだと。このまま衰える一方ならば、夏を越せずに死んでしまうだろう。殺されてから九か月も生き長らえてきたのに……。詰まらせる声にザキルカの悔しさが滲んでおり、それが紙を燃やすようにハンにも伝わってくるのだった。
「パパ」
 その短くて愛に溢れた言葉を、ハンはどれだけ呼んだのか計り知れない。ときにその呼び名は憎しみで満ちていた。けれど、いまは違った。ハンはピーター・ポルラムをこの上なく渇望していた。
「このまま終わってしまうだなんてうそでしょう、パパ。目をさまして!」
 ブロンドの三つ編みが横たわる枕もとにハンは拳を叩きつけ、両腕のなかに顔をうずめた。
「おねがいだから目をさましてパパ。――どうして目覚めてくれないの? わたしにうんざりしてしまったから? おねがい、もう一度だけ目を開けて。わたし、聞きたいことがあるのよ」
 涙でぐっしょり濡れたシーツをハンは握りしめる。
「あなたはわたしを愛しているのか分からない。わたしはあなたに『愛している』とまだ伝えていない」
 顔を上げてハンはもう一度ピーターの様子を見てみる。なにも変わらない。心なしか顔がさらに青白くなったように見えた。良くはならない。悪くなるばっかりである。これがハンの犯した過ちに対する裁きだとしたら、なんて残酷なのだろう。
 煉炭術開発実験でピーターが“事故死”してくれるよう願うハンとザキルカは、なんどもその様子を語り合った。ハンはピーターさえいなくなればカーグを取り戻せると、ザキルカは廃人になってまでピーターが生きるのは醜いと、そう信じていたのだ。
――ちょっと丹砂を多めに盛って水銀を部屋に充満させれば、おのずと体内に入るだろう――
――あなたは勇気がないのよね――
 ふたりの願いどおり、ピーターは水銀中毒で“事故死”した。彼は思いのほか脆かった。――ああ、なんて馬鹿なことをしたのだろう!
 肉が落ちて丸みを無くしたピーターの鼻筋を、ハンのしずくがつたった。それをハンは指で拭った。ピーターの笑った顔が見たいと思う。皮肉な笑いではなくて、心からの笑顔を。養父がどんな顔をして笑うのかハンには全く思い出せなかった。それもそのはず、生前ハンはピーターの顔をまったく見ようともしなかったのだ。
 神さま、愚かなわたしをお許しください。天罰ならわたしに与えてください。そしてパパに奇跡を与えてください。

 広い肩にまたがってハンが首に抱きつくとパパは足首を掴んでゆっくり立ち上がった。靴の裏がふわりと宙に浮く感覚。ぐらぐら揺れて少し怖い。落ちてしまわないよう、ハンは必死にしがみついた。
 そっとまぶたを開けるとポルラム屋敷の庭が遥か彼方まで見渡せて、思わずハンは歓声をあげた。シロップ湖の向こうには粉砂糖砂漠が延々と広がっていた。
 いつも葉っぱの下に隠れていた頭はいまにも雲を突き抜けそう。パパの背丈にハンの分を足せば、わたしたちはナール中に正午の鐘を響かせるのっぽの時計塔にも匹敵するだろう。パパの背は山のように高くて、どこへいっても頭ひとつ飛び出ている。それはハンにとって自慢のひとつだった。
 二メートルの特等席から青空を眺め、風を切ってハンは進んだ。まるで鳥になったようで、嬉しかった。でもパパにしてみればいつも見ている景色だから、これくらいじゃ飛んだうちに入らないんだって。パパはもっともっと高く飛んでみたいのだと言う。でもそんなに高いところへ飛んで行ってしまったら、わたしの手は届かないしパパのお顔を見ることさえ叶わなくなるわ。大きくなったらわたしが肩車してあげるから、それまで我慢して。
 そうだね、とぼそぼそ言ってパパは恥ずかしそうに微笑む。よく見ていなければ気付かない、かすかな笑み。それを知っているのは北世界でもハンだけだろう。物静かなパパの胸の内を代弁するかのごとく、金色の睫毛がちらちら輝いていた。

「たまたま買った家に地下牢が付いてたから使ってみただなんて貴族趣味だわね。ミイラを……」
「ミイラ?」
 洞窟に響く女性の声にザキルカは否定的な声を響かせた。
「ミイラでしょう。変わった形のミイラ」
 はっきりと物を言う、気取らないアルト。ザキルカと一緒にいる人物がエマだと気付き、ハンはうたた寝から飛び起きた。エマに見つからないようどこかに隠れなければ、とあたりを見回すが、走り回れるほど広い正方形の一室は見通しがよく隠れ場が見つからない。ハンは中央にでんと置かれたベッドをしばらく見つめたのち、「パパごめんなさい」と言って毛布を一枚はいで頭からかぶった。
 ピーターが寝ているベッドの下に身を隠してから、ようやくハンは状況を飲み込むことができた。しかし納得いかなかった。ザキルカはピーターを延命し復元しようとしている事実を六人――延命技術を手ほどきしたソルディ博士、延命維持に必要な人手としてミギワと三人の奴隷、そしてピーターを死に至らしめた共犯者のハン――を除いて、厳重に隠し通そうとしている。発覚して警察に捕まることを一番恐れているのはザキルカであるのに、どうして今ごろになって新たにエマを呼び寄せてしまったのだろうか。
――それほどパパが危ないということなの?
 これで最期だなんて、信じたくない。ハンはエマが我々のよき理解者であるよう強く祈った。息を殺していたが、乱れた心臓の音は毛布の中でどんどん大きくなっていった。足音が鮮明に聞こえるようになったかと思うとそれはぴたりと止み、夜目に慣れてきたハンは近づく者の気配を敏感に感じ取るのだった。
 毛布をほの明るくしていたろうそくの非力なともしびが遮られ、ハンはなにも見えなくなった。
「息がある……」
 ザキルカに連れられてピーターに対面したエマは、しばらく絶句したのち上ずった声を吐き出した。
「ザキルカ、興味本位でやる実験じゃないわさ」
「どうしてです? 昔、貴女は『不老不死開発プロジェクト』に携わったじゃないですか」
 エマが緊迫した低い声を出しているのにザキルカがへらへらと笑い声を混じらせるのが異様だった。
「神に代わって人間を不老不死に創り変えようとした貴女が、さんざん新たな種を作ってきた錬金術師が、死んだ人間ただひとり蘇らせるのに反対するだなんておかしいでしょう」
「おかしくはないんだわ。『不老不死開発プロジェクト』は人類存続のために命がけで行われた実験。でも、あんたがやってるのは独りよがりのわがまま! あんたの、この無茶苦茶な実験は人類のためとはなんら関係がないんだわ」
「俺が命を救おうとしているのは、この偉大なピーター・ポルラムですよ? しかも生前の病みの無い健康なピーター・ポルラムです。彼ならば貴女が望む世界を成し遂げられるはずです。だって不老人間をこの世に生みだしたのは彼なんですから!」
 ザキルカはハンに語ったときと同じように盲目的で子どもじみた理想をエマに語り聞かせた。死を取り消すどころかピーターの人格――彼が苦しんだ二十年間こそ彼なのだ――まで否定するという、こじつけの苦しい論理である。危険が大きすぎる割に収穫は乏しく、エマが首を横に振るのも当然だった。
「とにかく私は協力しないわ」
「もう一息なんです。お願いします。助けてください。救える命がこのままでは救われなくなってしまいます」
「救える命ですって?」
 今度はエマが嘲るように笑い、いつのまにかザキルカは苦しく追い込まれている。
「ピーターは死んだ。死んでるの。これは死体なの。そうよ、まったくもってミイラだわ。あんたはその魂の抜け殻に命を吹き込もうとしているのよ。おこがましいわ、ザキルカ。そういう人間がどうなるか知ってる?」
 ハンは息を飲んだ。
「それなら問題ないですよ。ピーター師匠が目覚めるならば俺は死んでも構いません」
「死っ……」
 思わず声が出てしまい、ハンは慌てて口を押さえた。ふたりが沈黙しているときだった。隠れていることがばれてしまったかと思いきや、ハンを探す気配はまったく感じられない。ハンは胸をなで下ろした。
 少しの沈黙のあと、ザキルカの真剣さに反してエマはおかしそうに噴き出した。
「その台詞は私みたいな老いぼれが使うもんよ。あんた、まだ十八でしょう? 死に急ぐんじゃないわよ」
「十九です」
「どっちでもいいわさ」
 エマにとって十代のザキルカはひ孫より幼い赤子である。ため息まじりの声を聞いて、エマおばあちゃんのあきれ顔がハンの目に見えるようだった。
「『不老不死開発プロジェクト』でハンナを作ったとき、ピーターはまだ十八だったのよ」
 暗闇の中でハンは目を見張った。人類の未来を変えうる不老人間を創りあげたピーターは神に裁かれて命を落としはしなかったけど、二十年の年月をかけて苦しみ続けた。だからザキルカだってたとえ神に殺されなくとも、ピーターみたいにうなされ続けてやがて死に至るのに違いない。
「私はね、ザキルカ。ピーターには安らかな死が与えられたと思っているの。世間を知らない十八歳の男の子の人生を台無しにしたのだと、いつの間にか私は悔いていた。あの子は生き地獄を見ていて、やっと眠りにつけたんだわ。だからピーターを起こさないでほしいし、あんたにピーターと同じ苦しみを味わってほしくないのよ」
「祖国のためなら手段を選ばない『ドクター・ドリー』ともあろうおかたが、どういう風の吹き回しですか。年のせいだなんて言わないでくださいよ。貴女は……ハンナさんの材料を知りたかったんじゃないんですか?」
「材料。材料ねえ」
「だからハンナさんをひきとろうとしていたんじゃないんですか?」
「そうだったかしらねー」
「ピーター師匠だけが材料を知っているのに、最後のチャンスをみすみす逃すんですか?」
「ザキルカ。ピーターは死んでいるんだわよ」
 エマは噛んで含めるように一語一語ゆっくりとザキルカに言い聞かせた。ザキルカの気配ががさごそと動いた。
「……生きてますよ」
 ハンは息を飲んだ。くつくつ笑うザキルカの狂気が目に見えるようだった。彼は阿片をやらないけれど、幻想に憑りつかれている。もうすぐ彼は死んでしまう、ハンはそう予感した。今すぐふたりの前に出ていこうとしたとき、エマの声が聞こえはじめた。
「私は協力しないけどあんたの意思は固いようね、ザキルカ。警察には言わないわ。その代わり、ひとりでやんなさい。だれにも迷惑かけずにひとりで死になさい。ピーターは罪と責任をひとりでかぶったんだわさ。――ハンナ、出てくるのよ」
 エマはしゃがみこんで、ベッドの下から毛布を引き剥がした。ろうそくの光がハンの顔をまぶしく照らした。引っ張られて腹ばいで出てきたハンはすかさずエマに抱きとめられる。
 ザキルカは眠るピーターの胸に覆いかぶさっていて、表情が見えなかった。エマの腕のなかでハンは震えていた。
「ハンナを連れていくわよ。あんたのわがままで縛る権利はないわ」
「ザックさん」
 わたしは、わたしのせいであなたは。
 ピーターを看取る姿勢のまま、ザキルカは鋭い視線をハンに投げた。
「その通りだ。ハンナさんは好きなところへ行けばいい」
 口もとに笑みを添えてはいるが、ザキルカの瞳の藍色は吸い込まれるほど深かった。足がすくんでしまったハンの視界をエマが手のひらで覆い隠した。

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