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「ポマトを父に送ったら『ポマト不要』という素っ気ない返事が来た。しかし返送されてこないので、煮込み料理にでもして美味しく食べたのだと思われる。来年も送ってやろう」
「今日は一日中雨なので、研究室にこもって鉱物実験をしていた。緑の獅子」
「ポマトの酸味がいまいちだ。改良の余地あり。ポワンが毎日ポマト料理を作るのでさすがに飽きてきた」
 耳に心地よい穏やかなバリトンが聞こえてくる。じっくり聞いているうちにいてもたってもいられなくなり、ハンは飛び起きた。カーグが近くにいるのだ! 小さいころ枕もとで読み聞かせてくれた声を邪魔しないようそろりとベッドから抜け出して、ハンは女中のエプロンと一緒に畳んであった質素なワンピースに身を包む。ドアをほんの少し開けると、カーグは顔を上げてハンの寝起きに優しく染みこむように微笑んだ。
「起きたのかい」
 朗読を止めて、年季の入った茶色い革のハードカバー――そういえばこのあいだカーグがパブで読んでいた本も読みこまれていたっけ――を未練もなく閉じたカーグは嬉々としてハンを迎えに行った。
 自分が嫌われていないどころか、いまもカーグに求められていることが分かってハンはほっとする。ハンはカーグの二十一年間の愛情と諦めの悪さを見くびっていた。悔しいけれど、ハンはカーグにまたすり寄れることが嬉しくてたまらない。薄暗い地下室にこもっていたせいで心身ともに弱っていたのだ。
「わたし、眠っていたの?」
「そうだよ、三日も。エマ先生が衰弱したきみを連れてきてくれたんだよ。ハンナ。ザキルカさんになにを吹き込まれたのか知らないけど、あんなところにいちゃだめだ。きみは無理をしてきたんだ」
 まぶたを閉じてハンはザキルカとふたりで過ごした共犯者の日々を思い返す。正気じゃなかった。昼間は慣れない女中仕事に自分を追い込み、夜はザキルカに責められる。そしてろうそくの光しか当たらないような陰気な部屋で、ピーターのミイラのために涙を流し続ける。いま目の前にあるカーグの健全な顔と見比べてみれば、それは不健全で悪夢のような閉鎖的生活だった。
「もうあんなところには戻らないわ、カーグ。わたしは目が覚めたのよ」
「よかった」
 カーグに抱きしめられ頭を撫でてもらっていると、近くにある幸福を捨ててまでわざわざ苦難の道に飛び込む必要はないのだと思えてくる。そしてカーグがさきほど机上に置いた古めかしい本が垣間見えた。現在のカーグが何に興味を持っているのかハンには見当がつかない。別れてからまだ三か月くらいだが、ふたりの距離はすっかり遠くなっていた。その距離をいますぐ埋めたいと思い、ハンは率直に尋ねてみる。
「さっき読んでいた本はなあに? 聖書?」
「聖書みたいなものかな」
 本をぱらぱらめくりながらカーグが思わせぶりに微笑を浮かべているので、ハンはとても気になって「見せて」と両手を差し出した。
 つかんでみるとハードカバーが型崩れしているのに気がついた。背表紙の幅に対して、中の紙が圧倒的に足りないのだ。暖炉の前のテーブルで湯を沸かしながらジンジャーブレッド・メンの缶を開けるカーグを横目に、ハンはエマ専用安楽椅子に腰かけてふかふかのクッションに頭を沈ませた。角が潰れている表紙には鍵をつけていた跡が見受けられ、何やらただならぬ予感がする。遊び紙をめくってすぐハンは指を止めた。そこから一センチほどページがごっそり千切り取られていたのだ! 次のページには黒いインクで書かれた几帳面な手書き文字が並んでおり、二重線が引かれているところに自然と目がいった。
――今日から私の娘だ。
 ハンは口もとに手を当てて、もう一度最初から読んでみた。

 一八六五年三月十八日。土曜日。曇りときどき雨。
 本日ハンとの養子縁組が認められた。私はハンとカーグを夕食の席に招いたが、何を話したらよいのか分からないし子どもたちも始終緊張していた。私たちには十三年分の空白があるのだから、当然であろう。これから埋めていけばよい。
 十三年よく知らないでいたが、ハンはユリエより素直で思いやりがある子だ。私たちはきっと良い父親と娘になれるだろう。私はハンをユリエ以上に幸せにしてやるつもりである。父親として愛情を注ぎ、何不自由ない生活をさせてあげよう。
 ハン・ヘリオス・ポルラム。お前は今日から私の娘だ。
 ハンの養父、ピーター・ポルラムここに誓う。

 日記帳を持つハンの手が震えていた。ピーターの直筆で「今日から私の娘だ」と書かれているのだ。なんども読み返すうちに渇望していた父の愛情が満たされていき、ハンの目に熱い涙がこみあげてくる。
「カーグ! どうして早く見せてくれなかったの」
 ジンジャーブレッド・マンを十人くらい皿に盛りつけているカーグに、ハンは駆け寄って例のページを開いて見せた。するとその拍子に日記帳からぱさりと何かが抜け落ちて、それを拾ったハンは目を丸くした。それは古い写真で、ピーターとハンとカーグの三人だけが写っていたからである。
「まあ。こんな写真があったなんて」
 絵具で描かれた張りぼての湖畔を背景にしてシルクハットをかぶった威厳あるピーター・ポルラムが立っており、その横の椅子に座っている年端のいかないカーグが抱きかかえている赤ん坊がおそらくハンであろう。
「それをよこしなさい、ハンナ」
「あら、どうして。とっても素敵な写真じゃない。もっと眺めていたいわ」
 かつて自分専用の茶室まで持っていたカーグがティー・カップに紅茶を半分しか注がないまま写真に手を伸ばすので、ハンはあやしんだ。カーグにとって写真が落ちるのは予期せぬ出来事で、焦っているようだった。ハンは写真を裏返した。
『こんなものは虚構だ』
 殴り書きしたために黒いインクが滲んでいるピーターの筆跡に、ハンは息を飲んだ。それは先程飛び上がらんばかりにハンを歓喜させた日記とは真逆の言葉だった。
 ハンは日記帳を真ん中あたりで割って開き、とにかく目についたものを読んだ。
「勲爵士として、美しい妻とかわいい娘に囲まれて暮らした日々が、懐かしく感じられる。ハンには高貴な血が流れていない……それゆえにがさつで落ちつきがなく、とくに食事の仕方が不愉快だ。注意しても口いっぱいに頬張るくせが直らない。これでは人前に出すのがはばかられる……」
「ハンナ、かいつまんで読んではだめだ。僕が読んであげるから」
 うつろな目をしてハンは首を振り、日記帳を固く抱いて離さなかった。
 カーグは小さな頭を慈しむように撫でながら、
「言ってしまうと、きみに対して甘い言葉が書いてあるのは最初のほうだけだよ。叔父の心は阿片に蝕まれていったんだから。でもね、不調のときはだれだって」
「パパはわたしを愛していないわ。気まぐれに愛する努力をしたみたいだけど、続かなかったのね」
「ハンナ」
「もともと愛されていなかったのだもの。それをくつがえす新しい発見など無くてもよいのよ。愛されていなくてもわたしはパパを愛している、それだけでじゅうぶんなのよ」
 泣き虫のハンナを傷つけたと思ってうつむく顔を心配そうに覗きこみ懐からハンカチを取り出そうとしていたカーグは、彼女の屈託のない笑顔に見惚れた。そしていぶかしむ。
「無理してないかい?」
「いまに始まったことではないもの。……喜んだわたしがおろかだったわ」
 ハンはピーターを愛し愛されたいと願うが、ピーターはハンを憎んでいた。一方通行の愛はつらいものだった。ピーターとハンが養子縁組した日に希望が見えた気がしたが、それは降り積もるみぞれのように形を定められないまま溶けてしまった。
 養父の愛は過去にも未来にも見つからない。
「アメリアのカップケーキ買ってきたわよー」
「えへへ、トフィーとチョコレート・ファッジもあるよ」
 閉じた日記帳の革表紙をじっと見つめるハンのかたわら、とびきり賑やかな声がふたつ場の空気を読まずに入ってきた。
「あら、ハンナ起きたのね。悪いけどあんたの分のカップケーキはないわよ」
「ボクの分はやらないもんね」
 エマとサイは師弟ともに明るくてハンは好きだけど、いまだけはうざったく感じる。ひとりで物思いにふけって、ピーターの愛を見失った余韻に浸っていたかったのに。
「わたし、カップケーキはいらないわ。だってジンジャーブレッド・メンにトフィーとファッジまであるのよ。考えただけでも胸焼けしそう。カーグ、お砂糖そんなにいれないで」
「わかった。僕のカップケーキあげるよ。お砂糖は三個だね」
「まあ、うれしい。ありがとう」
 カーグからの甘い贈りものをハンは喜んで受け取った。ラズベリーのカップケーキを食べながら、自分の好みを分かっているカーグがそばにいて幸せだとハンは思った。養父だった男のことなんて、どうだっていいではないか。忘れよう。
 エマとカーグが話しこみ、サイひとりで甘ったるいファッジひと缶を平らげてしまいそうなころ、ハンは脇に置いていたピーターの日記帳をもう一度手にとった。開いたら最後、なかには酷い言葉がいっぱい詰まっているに違いない。かいつまんで読んでも最初から読んでも、辿り着くところは同じなのだ。内容なんて分かりきっている。しかしハンは阿片中毒が進んだ最後のページに一体どんな恐ろしいことが書いてあるのか読んでみたくなった。本をひっくり返して裏表紙から開き、息を止めながら遊び紙をめくった。ハンはまばたきした。この日記帳は一八六七年二月十三日で締めくくられているが、その日の文字は書かれていない。代わりに描かれた下手な鳥の絵にハンはほっとして息をつく。それはなにかを意味しているのだろうけど、とりあえずハンは傷つかない。
 気を取り直して、もう一枚だけめくってみた。エマの笑い声がする。

 一八六七年二月十二日。火曜日。雪のち雨。
 お下げのエマの夢を見た。現実よりも顔色の良い十代の少女だった。「ピーターが金髪だから、髪の毛を白く染めたのよ」などと意味不明なことを言うあたりが夢である。
 出会ったころエマはすでに白髪だったが、もともとは何色だったのだろうか。
 茶の時間にそのことを聞いてみると、十代の彼女は赤毛でコンプレックスの塊だったらしい。まったく意外だ。

 ハンはエマの顔を見た。彼女は蜘蛛の糸のような垂髪を片耳にかけて、紅茶をすすっていた。ピーターにハンを作らせたのはエマだと聞いているが、彼女はどこまで彼のことを知っているのか。ハンの知らないことを少しは知っているかもしれない。それをハンは聞いてみたくなった。エマに一縷の望みを見たのだ。ハンは「今日から私の娘だ」の味がどうしても忘れられなかった。できることならもう一度――。
「先生」
 休憩を終えて錬金炉のある部屋に入っていくエマを追いかけて、ハンは後ろから声をかけた。檻の鍵を開けてシマウマみたいな模様のシカを出そうとしていたところだ。
「ねえ、先生。わたしは祝福されて生まれてきたのでしょう?」
「もちろんよ」
 エマはシカを一頭一頭後ろ向きにする。シカのしっぽはヘビになっており、しっぽの先で牙の生えた口を大きく開いている。彼女はその口を赤い紐で縛りはじめた。
「あなたはわたしの材料を知っているのでしょう?」
 四匹のヘビの口を縛り終えるまでエマは返事を先延ばしにしてから、ハンに笑顔を向けた。
「知らないわさ。結局ピーターが墓場に持っていっちゃったのよ。その日記帳にも書いてなかったしね」
 ハンが脇に抱えているものをあごで指しながらエマは言う。
「隠したの?」
「二度と作れないように」
 本を胸に抱きしめながら、ハンは下唇を噛んだ。
 エマはシカをいったん檻のなかに戻して鍵を閉め、ハンのほうへ向きなおった。
「ハンナ、ピーターのことは」
「パパは……パパはわたしが生まれたとき、祝福した?」
 ハンはエマの青い目をじっと見つめ、その雲行きを見守った。

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