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 幽霊のように虚ろな顔にエマが浮かべた笑みは曖昧で壊れやすく、ハンを安心させてはくれなかった。眉頭しか残っていない白眉が上げられ静脈の透ける額が大きく縦に歪んだのを見て、ハンは胸が張り裂けそうになった。
「おねがい。パパがわたしを愛していたと言ってちょうだい」
「私には答えられないわさ。ピーターの本心はピーターにしか分からないんだわ」
「うそ! 先生は知っているでしょう! 本当のことを言ってよ」
 レンズ越しに水色の瞳が感情を隠してまばたきする。そこからなにがなんでも搾り取らなくてはいけなかった。――ハンが生まれてきた意味を。
 時間稼ぎにハンを抱きしめてエマは目をつむり思いをめぐらせる。
「明日の夜カーグを連れてこの部屋に来なさい」
 食ってかかるハンを部屋から追い出しながら、エマはきっぱりとそう言った。ハンの求める僅かな光は明日へ引き伸ばされたのである。
 エマはどんな手段でハンを納得させるつもりなのだろう。ハンは「カーグを連れて」くる意味さえも考えこんでいた。希望を完全に絶たれたハンが寄りかかれるように。そしてハンが誤って錬金炉の中へ飛び込んでしまわないように。明日の夜、ハンの世界が一変してしまうほどのことが起こるかもしれない。そう思うと待ち遠しくも恐ろしい。明日までの時間が果てしなく感じられた。
 ハンはベッドに転がってピーターの日記帳を開いた。
『今日から私の娘だ』
 一八六五年三月十八日の日記を何度もハンは声に出して読んだ。完膚無きまでの絶望からぼうっと淡い希望が染みだしてくるまで。
 ピーターに思いを馳せながら考えにふけろうとしたハンだが、雑用仕事をするカーグの手伝いやサイのちょっかいに妨害されて心の整理がつかないまま約束の夜を迎えてしまった。
「カーグ。わたし、やっぱりこわいわ」
「でも知りたいんだろ?」
 ハンはうなずいた。それは確かだった。あれやこれやと想像して一喜一憂するよりも、絶望に打ちのめされてでも真実が知りたかった。それによってピーターとハンの関係も前に進める。
 「ハンナは愛されているんだよ」と根拠のない持論を繰り返す楽観的なカーグが今は頼もしく、ハンは彼の後ろに隠れるようにして例の部屋に入った。ひとりだったら引き返していたかもしれない。エマの錬金炉があるこの部屋は薄暗くて生温かい。動物――昨日のシカだろうか――の毛が摩耗した石造りの床に散乱しており、金属が焦げたような臭いがこびりついていた。
「先生、どこですか」
 応答が得られないまま奥に進むと、錬金炉の扉が開けっ放しになっている。黒地に三色すみれが描かれたファイヤー・スクリーンもどかされていた。エマがあらゆる生命を壊しては再構築するこの錬金炉はザキルカが個人で所有しているものよりやや小ぶりであるが、それでも翼をいっぱいに広げたペガーズがすっぽり入ってしまうくらい大きかった。足がすくむ。あれに吸い込まれたらひとたまりもないのだ。うっかり中に入って溶けかけたことがあるハンはあれの危険性を誰よりも知っていた。ごうごうと燃え盛る炎はまるで牙のようで、開いた口に飲み込まれたら二度と出てこられないだろう。そこにはどこまでも歩いていけそうな魔法円の異空間が広がっていた。ハンはぎゅっとカーグの右腕にしがみついた。するとカーグは振り向いて、炉からかばうようにハンを抱き寄せた。
 青みがかった稲妻のような光がカーグの横顔を照らしていた。カーグが錬金炉を見ているところを初めてハンは目にするのだった。錬金炉はハンにとって母親の子宮である。温かみの無い鉄の塊から産まれたハンを、カーグはどう思っているのだろう。ハンはカーグの顔をおそるおそる覗きこんだ。
「わたしは“化けもの”なのだわ」
 錬金炉の釘一本から魔法円に仕組まれた文字にいたるまでつぶさに観察するカーグの眼にいてもたってもいられず、「これで分かったでしょう」とハンは下を向いた。
「『気にしないよ』って言ってあげたいけど、きみがどうやって生まれたのか僕は正面から受け入れなければならない。目を伏せていたら、きみは僕のそばからいなくなってしまうから。ピーター・ポルラムの本心を知りたいきみと同じだ。愛するひとが生まれた仕組みを、理由を、僕は知りたい」
 そう言ってハンを抱きながら、カーグはまだ錬金炉の強い光から目を逸らせずにいる。愛せるわけがない。ハンは彼の心の深層を揺さぶり起こすようにもう一度訊いた。
「わたしが“化けもの”でもよいの?」
 するとカーグはハンの顔がよく見えるように彼女を正面に据え置いた。そして首を振って、やや口調を強めた。
「化け物という言葉はよしなさい。きみは化け物じゃない。化け物という言葉がきみを化け物にしていくんだよ、ハンナ」
 錬金炉を目の当たりにしても、頑張って努力すればハンは人間になれるとカーグはまだ思っているみたいだった。ハンは目頭を熱くして、
「その言葉が“化けもの”を否定しているのよ、カーグ」
「きみを否定してはいない。僕はきみを化け物だと呼ばないけど、人間だとも言わないよ」
「だったらわたし、なんなのよ!」
「僕が愛しているハンナだよ! 錬金炉で生まれてポルラム邸で一緒に育った、世界でただひとりのきみが好きなんだ」
 いつもより高めの落ち着きを欠いた声でカーグは叫び、ハンの肩を両手で揺さぶった。カーグが好き。カーグじゃないとだめ。ハンは感極まって打ち震えた。「わたしもあなたを愛している」と言って、カーグの胸にいますぐ飛び込みたかった。
 しかしザキルカと堕ちた日々が頭をよぎりピーターを殺した事実がどこまでもつきまって、ハンを思いとどまらせる。
「ごめんなさい」
「ハンナ」
「取り込み中のところ悪いわねー」
 黙ってしまったハンにカーグが愛の言葉を重ねようとしたとき、エマが入ってきた。エマは咄嗟にハンの手首をつかんだ。ハンがいまにも錬金炉に身を投げようとしていたからだった。
「危ないわねー。開けっ放しだったわさ」
「わざと開けていたのではないの? わたしを錬金炉に入れるために呼び出したのでしょう?」
 ハンは左頬に痛みを感じて手を当てた。エマはぶった手の平を腰にひっこめながら、ため息をついた。
「これからもっと残酷なこと聞かせようとしてるのに、いま飛び込んでどうするんだわさ」
「残酷なこと?」
「結論を言うと、私が思うにピーターはあんたを愛していないわ。その理由を知りたければ炉に飛び込まないと誓って」
「先生、なんてひどい……」
「“私が思うに”。真実を知らない私は推察しか述べられない。けど、かなりいい線までいってるんじゃないかしら。聞きたい? おばあちゃんの遺言」
 そこまで言われて聞かないわけにはいかないだろう。ハンとカーグは顔を見合わせてから頷き、錬金炉の扉に鍵をかけているエマの後ろ姿に「聞きたい」と言った。

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