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「妻を奪われてもピーターはプロジェクトに参加せざるを得なかった。なにしろ莫大な借金を抱えていて首が回らなくなっていたんだからね! 私がピーターの幸せを壊した! 人生を台無しにした! すべて私だったのよ、ハンナ。だから私を憎むといいわ」
 興奮して自身を嘲笑うエマに、ハンは朦朧として首を振った。それはエマを許したからでも彼女に同情したからでもなく、ピーターとイラージェの幸せを壊した原因が自分にあるからだ。炉の炎は燃え盛っているのに、寒気がしてハンは震えた。エマがいくら罪をかぶったところで、事実が悪目立ちするだけである。
 声を詰まらせて、ハンはうつむいた。カーグが背広を脱いでハンの肩にかけてやりながら、
「なぜイラージェをハンナの母体に選んだんですか。プロジェクトに参加させるだけなら借金だけでよかったんじゃないですか? ……先生」
 怒りをかみ殺したひどく冷静な声で、彼女の代わりにエマに問う。
「ハンナが……検体が、愛する女の子どもなら喜んで育てると思ったの。考えが浅はかだったわ。研究者と被験者になったとたん、ピーターとイラージェの関係は破たんした。イラージェはピーターを憎みながら死に、彼女を殺めた彼は心を病んでしまったんだわ」
――わたしのために! わたしのせいで!
 天啓を聞いたようにハンは目を見張り、胸に両手を添えて高鳴る鼓動をおさえていた。
 ハンの存在が愛するふたりを引き裂いたのだ。ピーターが死ぬまでハンを愛してくれなかったのは、もっともなことだった。ピーターはイラージェを抹殺してケイトと結婚しハンを抱えて新たな人生を送ろうとしたが、できなかった。ハンを愛そうと努力したけれど、どうしても無理だった。それほどまでにピーターはプロジェクトの象徴ハンが許せなかったのだ。
「ハンナ。炉のなかであんたが生まれたとき、我々は大いに祝福したわ。錬金術師だけでなく、三大公爵に政治家、優生学者、医者、奴隷商人……何百、何千、何万もの人々が不老人間の誕生に歓喜し、拍手が鳴りやまなかったのよ。だからピーターとイラージェ、世界でたったふたりに憎まれたからって気にすることないじゃない。ねえ、カーグ」
 エマに話を振られて彼女の頼みの綱は戸惑いながらハンの顔色を窺った。カーグはなんとかしてハンを元気づけたいと思った。
「エマ先生の言うことも一理あるよ、ハンナ。きみの嫌う研究者に好かれて全然嬉しくないのは分かる。だけど、僕はきみに出会えてよかったよ。カバネルも、オリアーヌも、ショウもラファルグもそう思ってる。きみは愛してくれなかったことより、愛されていることに目を向けるべきだよ」
 そう言ってカーグはハンの両手を握った。ハンは澄んだエメラルドグリーンの瞳をしげしげと見つめて、口を開こうとした。
――パパは生きているのよ。
 ハンはカーグにピーターの生存を告白したい気持ちに駆られた。その言葉は喉からでかかったが、エマの顔を見るとひっこんでしまった。ピーターを忘れることがハンに求められていた。前に進むべきなのは分かっている。ピーターのことを頭から消し去ってもハンは幸せになれるだろう。カーグと結婚するのに、ピーターの愛なんか真実なんか少しも必要なかった。
 しかし忘れられないのだ。ピーターを殺してしまった事実は消えないし、彼はまだ生きているのだ。どうして忘れられよう。
「私は、イラージェだけはあんたを少しは愛してたと思うのよ。十月十日お腹に宿してたんだもの。それに、あんたを『ハン』と名付けたのはイラージェなんだしねえ」
 エマがまた蒸し返してきたので、むきになってハンはにじり寄った。
「パパは?」
「自分がよく分かっているでしょうに。残念だけど」
 首を振るエマに、ハンは納得できない。ここで諦めたらピーターの愛に辿り着けない。エマの言葉を認めてしまったら終わりだとハンは思った。
「分からないわ。先生はパパの本心が分からないから憶測で物を言っているだけでしょう?」
「憶測じゃないわさ、推測よ。長年の知識と経験に裏打ちされた推測」
 ハンは青ざめた。九十二歳の老婆による推測は、真実に限りなく近いと思われた。真実を追求すればするほど絶望は大きくなり希望が消えていくのだった。
「せ、先生はわたしの材料を知らないのでしょう? そこに希望があるのよ」
 不安定な声でハンが主張すると、エマは錬金炉を見上げた。そしてそれに吸い込まれるようにゆっくりと歩み寄り、鉄の扉を正面から眺める。
「材料の推測はあるわさ。ピーターがあれだけうなされるってのは、よっぽどまずいもんだったのよ。材料をだれにも教えず死んでいったのは、再現してはならないものってことなんだわ」
 閉ざされた扉の中心部についているガラス張りの覗き窓をエマは睨んだ。彼女はとても真剣で、その言葉は深刻だった。ハンは両足で立っているのがやっとになり、ふらついてカーグの腕に支えられた。希望などもうどこにも残っていない。ハンをしっかり支えるカーグの腕の温もりだけが彼女の意識を辛うじて保っていた。
「本当にだれも知らないんですか、先生?」
「材料の準備はひとりじゃできないわ。しかし関与した補助者は――浅深かかわらず二十人くらいいたようだけど――だれも口を割らないし、なかにはピーターと同じように心を病んで死んでしまった者もいるんだわ」
 エマが肩をすくめると、カーグはため息を漏らした。お手上げと言った様子だった。
 少し考えて、カーグが「先生は何だと思います?」と訊いてみれば、エマはやれやれと首を振った。
「見当はついてるけど、死んでも言わないつもりよ。だれも得しないもの」
「言って! わたし泣かないから!」
 横からハンは意地で叫んだ。しかし、エマは腕組みしたまま首を振るだけ。
「舌を噛んで死ぬわ」
「おそろしい……おそろしいわ……」
 全身の力が一気に抜けてしまい、カーグの支えが無かったらハンは崩れ落ちていた。そうまでしても言いたがらない、エマの頑なに閉ざした口が答えだった。ハンの頭は熱病のように衰弱して、めまいがした。目が痛いほど乾いているのに、涙は一滴も出てこない。
「ハンナ、もうやめよう。お願いだ、やめてほしい。さあ、帰るんだ」
 ハンはなにも言わず、しかし反対もしなかった。カーグはそのままハンを連れて錬金炉の部屋を出た。
「疲れたね、ハンナ。ゆっくり休みなさい」
 ベッドに寝かせたハンの頭を愛おしく撫でて、カーグは寝室から出ていった。ハンは布団に潜りこんでこんこんと眠りについた。もうなにも考えたくなかった。

――ピーター師匠だけが材料を知っているのに、最後のチャンスをみすみす逃すんですか?――
 ハンはザキルカの言葉を思い出していた。ザキルカのしていることこそが唯一の希望でほかに手段はないのだ、という考えがふとハンの頭をよぎった。ピーターの愛と材料を知るには本人に聞くしかない。ピーターを蘇らせることは“できる”のに、どうしてそれを諦めるのかハンには分からなかった。ザキルカは神に裁かれて死ぬかもしれないが、ピーターが生き返るのならば釣りがくる。……ザキルカは死にたがっているではないか、なにをためらう必要があるのだろう? ザキルカの幸せは、ピーターの蘇生と引き換えに死ぬことなのだ。ハンはそう思いこんだ。
 ベッドに横たわったまま、ぼんやりした頭でハンは地下室にこもるザキルカを思い浮かべた。ザキルカは百パーセントではなくあえて九十九パーセントの復活を望んでいた。
「綺麗な師匠に会いたい」
 ハンはザキルカの言葉をつぶやいた。今ならそれが理解できた。綺麗なピーターとは九十九パーセント復元されたピーターで、それは阿片中毒でないピーターなのだ、と彼は言っていた。つまり実際のピーターと異なる一パーセントとは、ザキルカが嫌悪する阿片中毒である。そんな一パーセント、無くても構わない。むしろ無いほうがいいに決まっているじゃないか。
「きれいなパパ」
 ハンは「きれいなパパ」を思い描いてみた。ハンが望む、綺麗なピーターはきっとハンを愛してくれるだろう。彼にはハンを憎む理由がないのだ。もう一パーセント。もう一パーセント取り換えて、ピーターからハンへの憎しみを取り除き、代わりに愛をいっぱい詰め込んだらどうだろう。ザキルカの言うとおり、一パーセントぐらいだれも気がつかないものだ。理想のピーターを思い浮かべて、ハンは顔をほころばせた。
「すてき……」
 口に出してみて急にハンはぞっとした。理想の人間を作るだなんて、それでは『不老不死開発プロジェクト』の研究者と同じではないか。
 それにザキルカが成功させる保証は何もない。彼がやろうとしていることには前例がない。そんな不確定な未来のために、ザキルカが命を落とすだなんてばかげていた。しかもあれはピーターじゃない――ピーターに似せた『キメラ』だ。あんなもののために親友の命を売ろうとしていたなんて……ハンは首を振った。
 それは禁断の果実だった。ハンにとって、ピーターが目覚めることはとてつもなく魅惑的だった。まだ間に合う。手を伸ばせば手に入る代物なのだ。――いけない。頭を押さえてハンはまた布団にもぐりこんだ。
 気がつけばかなり長くハンは眠っていて、カーグが起こしに来たときには翌日の昼を過ぎていた。
「ハンナ、具合はどうだい?」
「ええ、だいぶよいわよ。あまり考えないようにしたら楽になったわ。……ぼんやりするけど」
 カーグが用意してくれたはちみつたっぷりの甘いポリッジを食べて、ハンは元気になった。食べている間中、カーグは向かいに座って頬杖をつきながらハンを眺めていた。
「おいしい?」
「ええ」
「……会いに行こうか?」
 ハンは麦粥をすくう手を止めた。
「え?」
「くちについてる」
 ためらっていると、カーグはハンの口から食べこぼしを人差し指で取って食べた。その何気ない仕草にハンは顔を真っ赤にした。
「会いに行こうよ、叔父さんに」
 当たり前のように提案したカーグに、ハンは胸を高鳴らせた。それはカーグが自分の食べこぼしを食べたせいではなかった。カーグはピーターが生きている事実を知らないはずなのに。

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