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 カーグはあの懐かしいポルラム庭園にハンを連れていった。先日部分的に一般公開されたらしい。かつてピーターの私物だった七色のキメラ庭園は、入場料五シドゥームを払えばだれでも楽しめる公共庭園へと生まれ変わっていた。
 恋人たちは互いに夢中で、なぜ真夏にイチョウの木が黄色くなっているのか気にも留めない様子である。足もとを這うカタツムリの貝殻が真珠でできていることを、軍服を着たお偉方は気付いているだろうか? パンフレット片手に子どもたちが歩いているが、ハンが二十年暮らした世界のすべてはとてもパンフレット一枚にはまとめられない。ピーターのことをなにも知らないで、とハンは思った。ピーター・ポルラムの死は彼の形骸化の第一歩なのだ。
 気持ちよさそうに刈りこまれた芝生を横切りながら、
「どうして悲しそうな顔をするの?」
 ひょいとカーグはハンの顔を覗きこんだ。
「カーグは悲しくないの? わたしたちの庭が踏み荒らされて」
 眉をひそめてハンがじっと見つめても、カーグの笑顔は少しも曇らないで人混みの庭園を慈しむように見渡している。
「叔父がすごい、すごいって褒めたたえられて、僕は誇らしい気分だけどな。それに、こんな素晴らしい庭を独りじめするなんてもったいないとは思わないかい?」
「でも、入場料をもっと高くするべきだわ。路上の安い見世物みたいに」
 ハンがくちを尖らせると頷きながら聞いていたカーグは首を振った。
「格が下がるって? ちがうと思うな。叔父さんの偉業は庶民にまで広く知れ渡ってこそ、価値が高められ確固たるものになるんだ。庭園を私物化してしまえば、それこそピーター・ポルラムは人々の記憶から消えてしまうかもしれない。だろう?」
 ハンは即答できなかった。カーグの瞳の聡明さを真正面から受け止めることができずに、斜めから盗み見た。ピーター一家も使用人も来訪者も、だれもに愛され誇らしく思われていた楽園をハンは鮮明に思い描くことができる。それに対し、五シドゥームの小銭を払って庭園を歩いている人々のどれだけがピーターの功績に敬意をもって眺めているのだろう? カーグの言葉に納得いかないまま、ハンは曖昧にうなづいた。
「そうね」
 ふもとの小屋で馬を借りたふたりは、ひときわ高い丘をのぼりはじめた。そのなだらかな斜面には規則正しい織糸のようなブドウ畑が広がっている。太陽の恵みを受けてブドウの木は青々と生い茂っているが、まだ収穫の秋には少し早いため客足は少なかった。行先を告げられないままハンはカーグについていった。彼はブドウ畑を越えていき頂上まで駆け上がって、そこでハンを降ろした。
 観光客はふたりのほかにだれもなかった。丘の上は風が冷たくて夏なのにちょっと寒いくらいで、たしかに人混みを避けられる穴場ではある。しかし綺麗な花が咲いているわけでもなく、そこから一望できるのは霧がかってぼんやりしているブドウ畑と、教会のてっぺんについている太陽のモチーフのうねっている端っこだけだった。カーグが道を間違えたのかもしれない。ハンは頂上の居ごこちを確かめるようにうろうろしていたが、やがてそれに飽きるとカーグのところに戻ってきた。
「わたし、ここ知っているわ。よくここでペガーズを休ませていたの。なつかしいわ」
「それはよかった」
 カーグはたちこめる白い霧で景色もなにもないのに彼だけはなにか見えているかのごとく、満足そうに辺りを見回した。
「ここでサンドイッチを食べようか」
「賛成!」
 手を叩いて喜ぶハンを見て、カーグはくちもとをほころばせた。
「見晴らしは悪いけど、ハンナは人混みが苦手だろう。それにふたりきりになりたかったんだ」
 バスケットから敷き布を取り出して芝生の禿げたところに敷くカーグを手伝いながら、ハンは嫌な予感がした。彼と目が合わせられなくなったハンは、「サンドイッチの具はなにかしら」と明るい声で彼の視線を食べものに向かわせようとする。
「サンドイッチ、ね……」
 ハンを見つめながら、上の空でカーグは答えた。彼にはサンドイッチの具などどうでもよかった。彼の瞳に熱を感じて、彼女はおびえるように身構えた。
「それは食べてみてのお楽しみ。サイくんが作ったやつも混じってるから覚悟してね。チョコレートが入ってるかも」
 少年のようにいたずらっぽく笑うカーグを見て、ハンもまたサンドイッチなどどうでもよくなっていた。上ずった声で「おいしそうね」と言ってみる。カーグに緊張を悟られてつけこまれるかもと危ぶみながら。
 カーグはバスケットを開ける前にもう一度、ハンの心に目で語りかけた。胸の高鳴りをハンは否定できなかった。潤んだまぶたを閉じ、彼女がうつむいたとき、
「おや、こんなところにヴェールが」
 わざとらしいカーグの声とともに、彼女の頭にふわりと軽いものが落ちて顔にかかった。それは顔をすっぽり覆い隠せるほどの大きさの白いチュール布だった。とっさに取り除こうとしたが思いとどまり、彼女はペガーズの羽根よりも軽く繊細で透き通った布越しに眉根を寄せながらカーグを見た。
 カーグの目はハンをしっかり見つめて逸らさなかった。
「内密の結婚はまだ有効だろうか」
 それは言いにくそうにくぐもった声だったが、一音も漏らすことなくハンの鼓膜に直接響いた。震える指先でヴェールの刺繍をなぞりながらハンは少し考えてから、声を低めて「いいえ」と答えた。そしてカーグから目を逸らした。彼の表情を確かめるのが怖かった。
「わたしはけがれているもの」
「どうして。ザキルカさんとの間違いだったら僕は気にしない」
 声音に興奮の色がやや混じっている。カーグはハンの顔を覗きこもうと少し屈んだ。
「だめなの」
 彼も自分も振り払うようにハンは頭を振った。すると次の瞬間ハンは有無も言わさず力ずくでヴェールごと抱きしめられた。
「僕のほうが滅茶苦茶やった。ねえ、過去のあやまちをいつまでもひきずるのはよそう? きみは十分苦しんだじゃないか」
 しゃくりあげるハンのおでこに、彼はヴェールの上からくちづけた。そのまま目を閉じて固く抱きしめていたが、彼女は一向に落ちつかなかった。彼の言葉を素直に受け止めることができないのだった。
「わたしはあやまちから目を逸らして生きてはいけないのよ。だから罪に罪を重ねようとした。わたしとザックさんは……」
 どうしてもハンの口から出てくるザキルカの名前に嫉妬して、カーグは愛するひとを抱く両腕で愛するひとをきつく縛った。そして彼女がよく見えるように目の前に据え置くと、ヴェールを上げてキスをした。目線を上げてカーグは太陽をまとう竜の一部をじっと見つめた――目を閉じて神に祈りを捧げた。
「結婚してくれないか、ハンナ。『キメラ』でも結婚できる教会が見つかったんだよ。それはカクタスにあって――」
「だめなのよ、カーグ。わたしの首には枷がかかっているの。その枷は、パパよ! わたしが殺したパパは……パパは……」
 顔を上げた拍子に目に溜めていた涙がこぼれ、ハンの頬をつたって落ちた。泣き顔を乾かすのには少し強すぎる風が吹きつけたとき、ハンは声をにじませた。
「まだ生きているの」
 カーグはハンの頬を手のひらで包んだ。
「ハンナ、きみはザキルカさんに上手く言いくるめられたんだよ。きみはひとを信じやすいから、騙されているんだ」
「この目で見たのよ!」
 目の色を変えてハンは叫んだ。それがあまりに切迫しているのを見て、カーグは戸惑った。彼女だけでなく彼自身にも言い聞かせるように、
「それは幻覚だ」
 と眉をしかめる。ハンはカーグの背広の胸に両手を置いて、顔を上げて彼の目をまっすぐ見つめた。
「信じて……幻覚じゃない。パパは生きているの。わたし、ザックさんを止めなきゃ……」
「ザキルカさんがなにかしたのか? まさか、彼の隠居となにか関係でも?」
 心音が早鐘のように鳴っている。真実へと近づきはじめたカーグを恐れつつも、ハンはうなづいた。もう後戻りはできない。ううん、戻ってはいけない。――パパによく似た『キメラ』が生きているかぎり。
 ザキルカを止めて、そして自首しよう。そうでなれば、わたしはカーグの顔がまともに見られないのだ。

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