-2-

「ごめん、ハンナ。信じられないんだ。信じたくないんだ、まだ。気が変になりそうだ」
 そのオカルティックな話題をカーグはいったん打ち切った。彼には嘘としか思えない真実を飲み込む時間が必要だった。昼食後も公共化された庭園を散漫と観光したが、ずっと手を繋いでいたにもかかわらずふたりの口数は少なかった。檻のなかに入れられた三つ頭のセルベル犬やガラス越しに火を噴くシメールを眺めているときでさえ、カーグはずっと考えていた。
 真実と向き合う覚悟をカーグが決めるまでそれほど時間はかからないだろう。実際に見なければ、いくら頭で考えたところで分かるはずがないから。それでもカーグが思い詰める時間はハンを断罪しているようで、彼女にとって耐えがたいほど長く、その一時間は一年にも十年にも感じられるのだった。
 五時の閉園までたっぷり見物して三等客車での帰り道、駅で借りた推理小説を読みながら――しかし、本の内容などまったく頭に入っていなかった――カーグは目線を本から離さぬまま深刻そうに“ひとりごと”を言った。
「仮に、偉大なピーター・ポルラムの死を偽装したのならとんでもない大罪だ。世間を騙したことになるんだから。ザキルカ・ラズリ=キリミネは社交界に戻ってこられないだろう」
 くちごもった微かな声だったが、神経を尖らせていたハンはすぐそれを拾い上げることができた。そのとき蒸気機関車が揺れて、ハンは窓際の手すりに捕まりながら周囲に聞かれてやしないかと様子を窺ったが、若い母親は赤ん坊をあやすのに必死で聞き耳を立てるどころではないし、山高帽が鼻までずりおちている男性はこくりこくり居眠りしていた。
 ほっとしたハンはカーグを見上げて、彼にしか聞こえない声で“ひとりごと”に返事をした。
「彼は社交界に捨てられる前に捨てたのよ。わけもなく婚約破棄したのではないわ」
 カーグはおもむろに本を閉じて膝に置き、視線を落としてしばらく黙りこんだ。ハンは窓から見える景色に目をやった。煙越しにのどかな小麦畑が流れている。その向こうにザキルカの叔父の領地になっている村の教会が見えた気がして、ハンは目を見張った。それはほんの五秒くらいで通り過ぎていく。
「コーンリッジで降りよう。墓地があるから」
 振り向くと、カーグは端正な顔を上げていた。
「行っても無駄だわ、カーグ。そこにパパはいないもの」
「なら、棺のなかで顔を潰されていたのは叔父じゃないんだね? でもその証拠は?」
 捕えがたい真実の線をカーグは徐々になぞっていた。否定していつでも無に戻せる余地を残しながら慎重に、しかし大胆に。自分の罪を結んだ紐が少しずつ引き出されていくように思われ、ハンは胸が締め付けられた。麦わらから覗くふたつの青い瞳はハンそのものを虚飾せずに見つめている。彼女は熱いまぶたを閉じて息を吸った。
「次の駅で降りて、馬車でザックさんのお屋敷に向かうとよいわ」
 言ってしまった。ピーターの秘密へと繋がる場所を。ハンはくちもとを両手で覆った。カーグはもう真実から逃れられない。こわごわカーグを見ると、彼は戸惑いの表情を笑みでやわらげた。
「納得いかなかったものの説明がついたわけだ。きみがザキルカさんのところにいたのも」
 こくりとうなづきながら、けれどハンの動揺はめまぐるしく止まらなかった。ザキルカのところにいたのは、半分は彼に銃を突き付けられたから。しかしもう半分は、彼女自身が犯した罪のせいである。カーグはその罪を忘れてしまったわけではあるまい。
「カーグ、ザックさんをあんまり責めないでね。わたしのせいなんだから」
「まだ信じていないからなんとも言えない」
 ピーターの生存を目の当たりにしたとき、カーグはザキルカひとりだけを責めるだろう。その前にハンは自首しようと思った。
 ふたりは黙りこんだ。カーグは読む気の無い文庫本のページを指で弄んでいる。それでも蒸気機関車は次の駅に向かって刻々と距離を縮めていた。
 そしてハンがかぶっていた帽子――カーグとお揃いのカンカン帽――を整えて、降りる準備をはじめたとき、
「出直さないか?」
 気後れしたようなため息をひとつ吐き、カーグはハンに苦笑した。
「どうして? おじけづいたの?」
「いいや。よく歩いたから靴に泥がついてるだろ。執事に門前払いされるよ」
 カーグが指差したふたり分――四つの足――は一日中歩いてくたくただった。しかしあのガッロが門前払いするだろうか。ハンはザキルカの執事の愛らしいぽってりしたお腹を思い浮かべた。
「それならだいじょうぶよ。靴なんてこうしてハンカチで……磨いておけば、ほら」
 拭いかたが不器用なのでかえって泥がへばりついてしまったブーツの爪先をハンはカーグに見せた。彼は首を振った。
「だったら馬車を借りる前に靴を磨いてもらえばよいだけよ」
「それだけじゃないよ。きみの服、サイくんのだろ。はっきりいってデザインが流行おくれだし、ちょっと甘過ぎて可愛い子ぶってるというか商売のにおいがするし、それにサイズがあってない」
 カーグがここぞとばかりに辛辣な言葉を連ねるので少しむくれつつも、ハンは自分の格好を見直した。着の身着のままエマに保護されたハンはピクニックに喪服を着ていくわけにもいかず、サイに借りたのだった。桃にホワイトチョコレートをたっぷりかけたみたいな、まるで彼の味覚のように甘すぎるワンピースは、彼が持ちあわせている女装服の一着である。元性的奴隷のサイに色眼鏡を使ったカーグの主観を無しにしても、このワンピースは趣味に合わず着ていて落ち着かないとハンが感じていたことは確かだ。しかもサイは男性でハンよりやや背が高いのだから――ハンは目をつぶるように着ていたが――サイズが合っているはずがないのだ。彼女は袖のだぶつきをはぐらかすようにつまんで、
「ガッロさんは流行に疎いようだけど。袖だってまくればあまり気にならないわ」
 しかし元子守で家庭教師のカーグは厳しかった。
「サイズが合わない、それが問題なんだよ。それじゃ既製服だ。いいかい、ザキルカさんの屋敷を訪ねるひとは既製服なんて着ないんだ。『サイズの合わない服を着るな』と僕は淑女を目指すきみに教えてきたと思うけど? かくいう僕の服だって流行おくれだしね」
 その理由はもっともだが、ハンにはそれが行かない言い訳にも聞こえた。蒸気機関車は汽笛を上げて走っている。もうすぐ次の駅に着くだろう。
「だったら」
 彼女は腕を組んだ。
「こっそり忍び込めばよいのではないかしら」
 しかし彼は首を横に振る。
「主人が社交界から身を引き隠居しているとはいえ、セキュリティーは甘くないよ。むしろ厳しいだろう。人に言えないような後ろめたいことをしているんだから」
 カーグの言うことは正しいけれど、確かにザキルカがもう一度ピーターに会わせてくれる保証なんてなにもないけれど、それでもあきらめきれない。彼女は顔をうつむかせた。
「出直すしかないの?」
「ハンナ。こういうことは勢いで行くべきではないと思うんだ。準備して挑む必要がある」
「でもあんまり先延ばしにしていたら、おじけづいて行かなくなってしまうのではないかしら」
 顔を上げ、ハンは凛とした声でひきとめようとした。がたんごとん、ぎゅうづめの客車が揺れた。
「僕が?」
 柳眉をひそめたカーグに、ハンは急いで首を振った。
「わたしよ」
「そしたら僕の手綱を握っていてほしい」
 とハンから目を逸らさずに言い、カーグは温い手の平で彼女の手をしっかり握った。密着した肌と肌に熱が生まれ、そこに汗がじんわり滲みだす。カーグの手の平に重みを感じて、ハンは胸を詰まらせた。
「僕が逃げ出そうとしたら、手綱を引っ張って軌道を修正してくれないか。ハンナ」
「わかったわ、カーグ」
 息苦しさを感じながら、ハンは口角を上げた。カーグはきっと逃げないだろう。ピーターとの再会、そしてふたりを引き離すときが迫っていた。
 それまでは一緒に。

Return to Top ↑