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 ハンが新調したドレスは夜の帳を思わせるシフォンの黒だった。とにかく地味にしてくれるように彼女は頼んだのだがお洒落な仕立屋がそれを許さず、小柄な彼女の可愛らしさを最大限に引き立てる上品なデザインになるらしい。
 布地を当ててみるハンがまるで病人のように青白い顔をしているので、カーグは心配した。
「喪服ばかりで気がふさぐだろう? もう九か月になるし、明るい色を着てもいいんじゃない」
 するとハンは幼い顔を神妙な面持ちにして彼を見上げた。
「喪服じゃないとだめなの」
 カーグにはハンの喪服がこのまま一生続くように思われた。彼はリハビリも兼ねて手作りのヴェールに刺繍を施していたが、彼女の前に出せる雰囲気ではなかった。見ていると幸せになれる喪服と正反対の色のヴェールを広げて、彼は眺めた。――ハンナを幸せにしたい。そのために、自分は得体のしれない恐ろしいものに臨むのだ。ピーターがたとえ生存していたとしても、彼はその男に会いたくなかった。ピーターの身体は彼にとって“麻薬”である。せっかく同性愛の罪から逃れられたというのに、また“麻薬”に溺れてしまうのか。肉欲の禁断症状を僕は断ちきれるだろうか。無性に阿片が欲しくなり、カーグは席を立った。
「カーグ、どこ行くの?」
「ん、ちょっとね」
 カーグを乗せた辻馬車はいつもの上品な商店街を通り抜け、狭い路地に入りこんだ。急に彼は不安になった。長屋の空一面に張り渡された洗濯ものが見えなくなると、彼は怖くてたまらなくなった。関係を持ち二か月と続かなかった従僕に教えてもらった阿片窟は貧民街にあった。塀の落書きや割れたショーウインドウ、盗まれた銅像の頭部……。それでも行かなければいけない理由はあるのだろうか。ぼんやりと考えるが、平常心はいいようのない心配の雲に隠れておぼろげになっていた。
 窓ガラスに映る「みすぼらしい身なり」を確認して、カーグは馬車を降りた。「なにも聞かないでくれ」と言って御者には乗車賃を多めに渡してあったので、重い荷を下ろした馬車は逃げるようにすっ飛んで行った。街は想像以上に荒れ果てており、宿も職もない無い浮浪者が割れた酒瓶を拾い集めていたり、子どもに盗られたものを取り返そうと大の男が角材を持って追い回している。
「お兄さん、お花買っておくれよ」
 花売りから声をかけられてびっくりしたカーグは、おびえるようにその場を立ち去った。憐れみと物珍しさから普段よく買ってあげる花だが、十五歩間隔で花売りにぶつかるこの貧民街ではきりがない。道行く人々は買ってあげられるほど懐にも心にも余裕がなかったので、売れ残った花が両手いっぱいの籠のなかでしなびていた。彼は目を伏せて早足で歩きはじめた。
 本物の貧民ではない自分が無事にこの街を進むことができるのだろうか。多少お金を持っていると知れたら、たちまち袋叩きにされて身ぐるみはがされてしまいそうだ。念のため、カーグはかぶっていた鳥打帽に泥をつけ始めた。靴も脱いでおいたほうがいいかもしれない。
「僕はなにをやっているんだろう」
 こんなにまでして阿片を求める必要があるのだろうか。春先に逮捕されて以来、もう半年も阿片を断つことができていたのに。いったいなんのために……。彼は泥のついた鳥打帽を見つめた。
 勢いで貧民街へ出たものの思い直して辻馬車を呼び、カーグはひと月半ぶりに精神科医の家を訪ねた。都市部に連なる三階建ての街屋敷である。
 玄関から顔を覗かせた女中は浮浪者を装ったカーグを見て顔をしかめた。
「患者さんですか?」
「はい。阿片中毒の件でお世話になっているソーンです」
「先生に聞いてみますから、待っていてください」
 しかし五分経っても女中は戻ってこない。しばらく玄関口で待ちぼうけを食っていると、話す医者の声が微かに聞こえてきた。
「私は忙しいのだよ。空きベッドに月五十クラン出すからと言ってくださっている患者さんがいてね」
「しかしあのかたも同じ患者さんでしょう」
「いいかい、きみ。私だって救いたいのは山々なのだ。しかしね、阿片中毒患者なんて掃いて捨てるほどいるのですよ。悪質な阿片チンキを薬局に並べているうちはね」
「それは、お医者にかかるお金が無いからです」
「きみはお金お金といいますけれども……ん?」
「どうしました? 先生」
 すると慌てて書類を弄る音が聞こえて、精神科医が走りながらやってきた。
「これはこれはソーンさん! 大変お待たせいたしました」
 応接間に通されたカーグは医者の向かい側のソファーに腰かけるなり、身を乗り出した。
「僕は正常なのでしょうか」
「まだ禁断症状が続きますか?」
「いいえ、落ちついています。でも意思が弱く、誘惑に負けそうになるのです」
 そう言ってカーグは目を伏せた。
「禁断症状が無くなったのなら、医者は必要ありませんね。もう来なくていいですよ」
 驚いて医者を見ると、彼はカルテにペンを走らせている。ベージュの三つ揃いを着た白髪の医者は微笑みとともに「おめでとう」と告げたが、カーグには自信がなかった。ハンを幸せにする自信が。まだ麻薬にも精神科医にも依存していたかった。
 そんなどっちつかずの、どちらかといえば不安な顔をしていると、医者はカーグの両手を取って力強く励ました。
「ここからは貴方の意思ですよ、ソーンさん。誘惑はどんなひとの周りにもあります。誘惑には近づかないことです」
「誘惑を避けられないのです」
「それなら意志を強くするしかありません。禁断症状を克服した貴方ならできる」
 カーグははっとして目をぱちくりさせた。
「克服したんですか? 僕が?」
「そうですよ。貴方、ここのところ通院日をすっぽかしていたでしょう? 治っていたのですよ、ソーンさん! もう私に会わないよう気をつけてください」
――こんなところもうごめんだ!
 精神科医の家の門を閉めると、カーグは飛び上がらんばかりに歓喜の声をあげて石畳を走り抜けた。清々しい晴天の風が彼の顔を洗った。ハンにヴェールを被せてあげよう。彼女はもっと明るい色のドレスを着るべきだ。彼は銃砲店で小型の拳銃を吟味したあと、コーヒー店の前の屋台で揚げたてのフィッシュ・アンド・チップスを買って土産にした。

 エマはハンの背中に足をかけてコルセットの紐をぐいぐい引っ張っていた。姿見からハンは振り向く。
「先生、コルセットをしめすぎないでね。気絶してしまっては大変だから」
「なんだってザキルカのところに行くんだわさ」
 紐を結びあげてぱんぱんと手を払い、エマはできあがったコルセットの背中を弾くように手のひらで押した。その反動でよろけながら、ハンはどぎまぎする。
「どうしてわかったの?」
「墓参りにしては気合入ってるからよ。カーグが。あのこと、話したのね」
 ぽかんと開けていた口を引き締めて、ハンはうなづいた。そしてベッドの下に置いていた日記帳を持ってきて開き、挟んであった封筒を取り出した。声が震えるのを押し切って、
「先生。わたしたちになにかあったときは、この手紙を送ってほしいの」
 ハンが手渡した封筒を受け取りながら、エマはあて名が警察署になっているのを確認して、
「遺書?」
 と皮肉っぽく唇を歪ませて、引き出しにしまった。
「喪服だけに笑えないわ」
 ハンはわずかに口の端を上げた。

――レスター警部。あなたは『安全ひつぎ』のなかの遺体に気づかれたことでしょう。おそらく顔がつぶされていたことと存じます。それは本当に養父なのでしょうか。ザキルカ卿はわたしに言いました。ピーター・ポルラムは棺のなかで生きていると。しかし生きている養父は見つからなかったでしょう? どうして卿はそのようなうそをついたのでしょうか。そしてなんのために顔をつぶしたのでしょうか――もうお分かりでしょう? つぶしたのはザキルカ卿です――。
 なぜ彼を逮捕しないのです?――

 ひだとカットラインの重なりが美しいシフォンドレスなら返り血で汚れても目立たない。流行のシルエットはマーメイドラインへ移ってきているが、敢えてバッスルにしてもらった。お尻のフリルのなかにナイフを隠していけるから。タイトなマーメイドラインではそうはいかない。姿見に妖艶な微笑みを残して、ハンは弔いのための一番暗い色をした装束の裾を翻して行った。
 『エリザベス』の黒い薔薇を花束にして、ふたりはピーターが表向き眠っているとされる墓場を訪れた。
 花を手向けるとカーグはしゃがみ込んで墓石に刻まれた命日を見つめた。一八七二年十月二十四日……。
「叔父さんの好きな花を持ってきたよ」
 そう言って彼はシルクハットを脱ぐ。ぴょんぴょん跳ねる短い癖毛を髪油でいつもよりしっかりなでつけているカーグは、いつにも増して美しかった。
 パラソルを差したままハンはカーグと墓石を見下ろしていた。彼と一緒に柵のなかに入ったものの、彼女は墓に近づく気にはなれなかった。
「そこにあるのは名前の無い骨よ」
「分かってる。けれど本物に会えば僕は正気でいられなくなるかもしれないから、偽物に話しかけるんだ。ここに眠る霊魂よ、叔父の魂が帰るべき天国で伝えてほしい。……叔父さん。あなたを殺すことで僕とハンナは自由になろうとしました。けれどそれは間違っていました」
「なぜ?」
 ハンはカーグの背中に問いかけた。
「殺す以外の手段はなかったものか」
「なかったのよ」
 涙声になっているカーグの後ろでハンは天を仰ぎ、落ちてくる涙を受け止めようとした。しかし堪えきれず、ハンは黒いレースの甲で涙をぬぐった。
「パパ……ゆるしてください」
「……ハンナさん!」
 闖入者の声にふたりが振り向くと、そこにザキルカが立っていた。黒いフロックコートを着て、『エリザベス』の花束を抱えている。
「ザックさん」
「墓参りですか? 奇遇ですね」
 ザキルカは「墓参り」という言葉を不自然に強調してハンに目をやったあと、カーグの姿を見て笑みを消した。カーグは立ち上がってザキルカに歩み寄ると穏やかに微笑んだ。
「どうして鉄柵をつけたんですか?」
 澄み切ったエメラルドの瞳を睨むように見返して、ザキルカはひきつった笑みを作った。
「荒らされたからですよ、だれかさんに」
 ザキルカの鋭い視線にカーグは薄い笑みを浮かべた。彼ははらはらするハンをちらりと見やってから、
「そう、僕は掘りおこしました! そして顔が潰された遺体を発見したのです」
 と、朗々としたバリトンでザキルカに宣言した。
 ザキルカは血の気が失せた顔で唇を引き結び、しばしカーグを睨みつけた。そしてうつむいた顔から込み上げるように肩を震わせて高笑いした。それは安らかに眠る霊魂を呼び覚ますかのごとく墓地に響き渡って、ハンとカーグの沈黙の前で虚しく消えていった。
「ハンナさんから聞いたんですね。いいでしょう、お見せしましょう。ご招待しますよ、カーグさん」
「ザックさん」
 カーグを手招くザキルカにハンは声を投げかけた。ザキルカは背を向けて柵の扉をぎいと開けながら、
「必ず戻ってくると思っていました。でも、まさかカーグさんを連れてくるとはね」
 ふっと嘲る笑いを吐き捨ててザキルカは歩いて行った。ハンとカーグは顔を見合わせて無言の言葉を交わし、彼のあとを静かについていく。

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