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 女神の石像が割れて隠された入口が開くと、ザキルカを先頭にしてあいだにハン、最後にカーグ、という順番ではしごを下りていった。慣れているハンが最後に行こうとしたのだが、奥深くの暗がりまで伸びているはしごを見たカーグがどうしても譲らなかったのだ。
「ハンナ、足を踏み外さないようにね」
「だいじょうぶよ、カーグ」
 ハンの小さな足が一歩一歩足場にかかる音を確かめてからカーグは進むのだった。足音が聞こえるほかは不気味な静けさが漂っていた。ハンはドレスの下に履きなれたブーツを履いてきていたが、それでもフルレングスのドレスで下るのは難しかった。躊躇せず裾を破いてしまえばよかったと後悔しつつも、弱音を一切見せずに持ち前の運動神経と器用さで彼女はなんとか下りきった。
 壁にろうそくを灯したところでザキルカはふたりを待っていた。カーグの両足が着地すると、ザキルカは仕掛けのレバーを引いて動かした。壁に組み込まれた歯車がごとりと鈍い音を立てながら角度を変えて絶妙に噛み合う。すると出口から差し込むわずかな光は細く小さくなっていき、とうとう終いには閉じてしまった。退路は完全に断たれたのである。
「見つかっちゃまずいものですから」
 ザキルカが毎回用心深く閉めていたことに今さら気づいたハンは、自分がひとりで来ていたとき出口を開けっ放しにしていたなんて言えなかった。同時に事態の深刻さを感じた。地上から隔離された岩壁の暗闇は重圧そのものとなって彼女にのしかかった。
 手燭を各人に持たせてザキルカは湿った道を歩き出した。そのあとをハンの手を取りカーグが追った。土埃混じりのかびたような異臭がしてくると、一行はいつの間にか鉄格子のあいだを縫っている。
「古い地下牢なんです」
 腐敗した鉄格子の名残に物々しい足枷や人骨らしき残骸を見つけて、カーグは握る手を固くした。そこには死の気配が漂っていた。
「生き埋めになったらどうするんですか」
「ダイナマイトがありますから」
「それは安全なんですか?」
 ふいに視界の隅をネズミが走り抜けて、ハンは短い悲鳴を上げた。三人の足音が単調なリズムになっているときに積んだ石が崩れてざっと砂が落ち、カーグは辺りを見回した。それが三回四回と頻繁に起こるようになるとカーグは憤って、ザキルカの後ろ姿をきっと睨んだ。
「こんなところにハンナを連れてくるなんて、どういう神経してるんですか」
 するとザキルカは立ち止まって振り返った。ハンを見ながら残酷な物言いで、
「彼女はそれ相応のことをしたじゃないですか」
 と笑う。声が洞窟の廊下に響き、ハンは唇を噛みしめた。
「帰ってもいいんですよ」
 得体のしれない前方に向き直りながら、ザキルカはぶっきらぼうに言った。カーグは汗ばんだ手でハンの手を握りなおした。
「叔父がいるんだろう? “生きている”」
「そうよ、カーグ」
 少しの沈黙があり、三人は再び進みだした。ときおりハンはカーグの横顔に疲れの色が出てやしないかとうかがった。ピーターまでの距離や彼がどんな状態で生存しているのか、なにも知らないカーグには途方もない道であったに違いない。そして天井からヘビが落ちてきたとき、緊張が頂点に達したカーグはハンの手を離して発砲したのだ。それは突然の、一瞬の出来事で、ザキルカの足が止まったのは目の横を弾が掠めてからだった。後ろを振り返ることができなくて、ザキルカは視線だけで後方を見ようとする。
「何事……ですか?」
「ちょっと待っておくれやす!」
 前方から聞き慣れない女の声がすると、カーグはそこにもう一発撃ちこんだ。弾丸はザキルカのテンガロンハットの広いつばを掠めて飛んで行った。すると先の曲がり角から男装の麗人ミギワがひょっこり出てきたではないか。銃を見た彼女は小動物のようにおびえて壁の後ろに身を隠した。彼女だと分かってハンはほっとしたが、正体を認識してもなおカーグは彼女に撃ちこもうとする。かばおうとしてついにザキルカが拳銃の前に飛び出すと、待ち構えていたようにカーグの銃口はザキルカの額に押し付けられたのだった。冷酷さをよりひきたたせている端正な顔に息を飲み、ザキルカは懐から素手だけ出して顔の横に掲げた。引き金に指を軽くかけながらカーグは質問した。
「さっきのはなんですか」
「ピーター・ポルラムの世話をさせている女です」
「わたしたちのほかに四人いるのよ、カーグ」
「四人……」
 銃口でザキルカを拘束したまま、カーグはそこに人間がいる意味を考えた。
「その四人を追い出すか身動きを封じるかしなさい。さもないと頭に風穴があきますよ」
「カーグ、だいじょうぶよ。ミギワさんはよいひとだもの」
「だいじょうぶなものか。現にこの男の言いなりじゃないか」
「分かりましたよ」
 ザキルカはミギワを呼び出して三人の奴隷とともに地上へ出るよう命じた。すると地下の闇がさらに深くなったように感じられた。カーグもザキルカもハンも黙りこくっていた。ハンはひと月前最後に見たピーターの状態を思い浮かべた。あのとき彼はやつれていた。
 しばらくすると急に道が開けて、一行はピーターが眠るろうそくの部屋に出たのだった。カーグは片方の手でずっとハンの手を握っていたが、今は彼女の手を支えにしているようだった。拳銃でおとなしくなったザキルカもあてにはできず、ハンはひとり気丈にピーターの寝ているベッドへ歩み寄った。
 再会したピーターはハンの知っているなかで一番優しそうな顔をしていた。彼女は養父の頬にそっと指で触れた。今にも起き出しそうな顔色の良さに、本物なのではないかと思わず錯覚してしまう。彼女は首をぶんぶん振った。
――これは、パパの姿をした化け物なのよ。
 そう言い聞かせてハンは深呼吸し、気を落ちつけようとする。
「叔父さん……」
 そばでじっと見ていたカーグはようやく口を開いた。同時にザキルカの拘束が緩んで逃げ出したが、カーグは気付いていないようで寝起きみたいにぼんやりしているのだ。
「本当に生きているのか?」
「生きているんですよ、カーグさん。息をしているでしょう?」
 ザキルカが悪魔のささやきを投げかける。ベッドを取り巻く岩床に描かれたチョークの文様をときおり屈んで書き足しながら彼は散漫と室内を巡っていった。――このままでは黒魔術が完成してしまうわ! ハンは焦ってカーグを揺さぶった。
「それは“死体”なのよ、カーグ」
 しかしピーターの鼻口に手をかざし裸の胸に耳を当てていたカーグは、ピーターが死体でないことを確認していた。
「……たしかに生きている」
 「でしょう」と戻ってきたザキルカが耳元で胡散臭そうにささやく。
「それはパパではないのよ。すごく似ているけど違うの。騙されてはだめ」
 ザキルカは茶々を入れるハンに鋭い目を向けた。手についたチョークの粉で黒い帽子のつばが白く汚れていた。
「ハンナさん、どうして戻ってきたんですか」
「ばかなことをやめさせるためよ」
 強くハンが言うほど、ザキルカは柔らかく肩をすくめて、
「いったい貴女はどうしてしまったんですか――ハンナ? 生き返ってほしいって言ってたのに」
「言ってないわ」
 そのやりとりにカーグは眉をひそめ、ハンとザキルカを交互に見る。
「生きてるんですか? 死んでるんですか? どっちなんですか?」
「それは魂の抜け殻なのよ、カーグ」
 寝息を立てるピーターの生き生きした顔を見下ろしながら、ハンは機械的に言った。カーグはこめかみに手を添えて、その異様な光景を理解しようとするができなかった。
「どういうことですか、ザキルカさん」
「脳は死にました。しかし肉体は生きています。実は密かに延命を施していたのです」
 鼻先まで伸びてしまったピーターの黄金色の前髪を慈しむようにかき分けながらザキルカは言った。
「そんなことって……」
「ないわよ。それは『キメラ』だもの」
 カーグはエメラルド・グリーンの目を見張った。悲しそうな目をハンのそれと通わせ、それから呆然とピーターを見つめた。「なんてことだ」と呟いてから、はっきりとした声で、
「叔父さんは人間じゃないのか」
 とザキルカを睨みつけた。
 そのときハンは、色素の薄い茶色のまつ毛が微かに動くのを見た気がした。
 ザキルカはうつむいて師の縮れた髪の毛を触りながら、
「人間であることにこだわる必要なんてありませんよ。あのころの“廃人”とどこが違うんです?」
 すると力任せの鈍い音がした。フロックコートの黒い裾が宙に踊った。どさりと頽れる。カーグは痛んだ拳を握りしめた。ピーターを「廃人」と呼んだ男の顔を彼は殴っていた。ザキルカが冷たい地面に這いつくばっているのを見てハンは青ざめ動揺したが、興奮冷めやらないカーグは畳みかけるように罵声を浴びせた。
「顔をつぶされた死体を見たとき、殺してやろうかと思った! 叔父の顔を平気で潰せるなんて、殺してやろうと思った! しかしもっとひどいじゃないか。……人体実験に使うなんて」
 カーグは顔を歪めて、ごつごつした冷たい岩床に手をつきやっとのことで起き上がるザキルカに蔑みの視線を投げかけた。自尊心を傷つけられたのが悔しかったらしい、ザキルカは恨めしそうにカーグを見る。くちびるについた血をコートの袖口で拭いながら、
「人体実験だなんて誤解です……。誤って殺してしまった責任をとろうとしているのです」
「それなら殺しっぱなしにしておいたほうがましだ! 叔父はペガーズとは違う!」
 カーグは激高した。ザキルカの言葉は火に油を注ぐようにカーグの反感を買ってしまうのだ。
「ザックさん。もうやめましょうよ」
 ザキルカはハンをかすかに見た。落ちてきた長い前髪を手で流すと、彼は屈んでピーターを覗きこみ薄い笑みを浮かべながら、
「もう手遅れですよ。本人の脳にすげかえたんですから。だから俺は墓に出向いたのです。死んだ師匠に別れを告げ、新しい師匠を迎えるために」
「脳?」
「死んだ脳を蘇生させたのです」
「ザックさん、マッドサイエンティストだわ。そんなことだめよ。パパみたいに神さまに裁かれて死んでしまうわ……」
「もう遅いんですよ、ハンナさん」
 三人はピーターの顔を覗きこみ、今にもまばたきしそうなまぶたや呼吸する唇からのぞく白い歯を注意深く見守った。ザキルカはハンとカーグに皮肉な笑みを向けた。くつくつとした笑い声にふたりは青ざめる。ハンはカーグの拳銃を取って、銃口をピーターののどぼとけにぴったりとつけた。しかしその引き金は錆びているかのごとく重く、焦点はぶれて定まらない。
「貸して」
 カーグは取り戻した拳銃でピーターのこめかみを狙った。そのまま引き金に指を添える。
「ピーター・ポルラムが生き返ればハンナさんの殺人罪が消えるかもしれないんですよ。捕まってもいいんですか?」
 とっておきの手段を使ったザキルカをハンは卑怯だと思う。彼はカーグの弱点をついて思いとどまらせようとしたのだ。彼の思惑通りカーグはためらってハンを見た。彼女は頑なに首を振る。
「カーグ。わたしを愛しているのなら、わたしに罪を償わせて。ひととして正しい判断をして」
「僕は正しく生きているつもりはないよ」
「だめよ。その化け物はいますぐ始末されなければならないのよ」
 ハンは拳銃を離そうとするカーグの手を両手でしっかりと握り、それを再度ピーターの頭に向けさせる。ザキルカは緊迫した声で警告した。
「あなたたちの父親と叔父の顔をよく見てください。それでも殺せますか?」
「化け物はひとを惑わすために、まるで人間であるかのような姿かたちをしているものだわ」
「まるで自分のことを言っているみたいだな。ハン・ヘリオス・ポルラム」
 鼻で笑うザキルカにハンとカーグはほぼ同時に視線をやった。ザキルカは据わった目でハンを非難するように見つめるのだ。それはハンがもっとも恐れている目だった。彼女はがたがた震えだし、それは握られているカーグの手にも伝わってきた。カーグはザキルカを心底憎む目でねめつけ、にじるように歯をきしらせてうめいた。
「……ハンナは化け物なんかじゃない」
 その言葉はどこか後ろめたく、ハンは息苦しさを感じた。事実、彼女は「殺人を犯した『キメラ』」なのだ。それは「化け物」と呼ぶにふさわしいものだった。
「カーグさん。錬金術で蘇ったピーター・ポルラムを否定するなら、それはハンナさん自身を否定することになるんですよ」
「カーグ、わたしは生まれてきてはならないものだった。パパはわたしのために死んでしまったのよ。わたしは人間じゃないの。だからわたしを殺して、パパも殺して。おねがい」
 カーグは絞るように目をつぶり眉を歪めた。
「ハンナ……そんなことできない」
 ハンはカーグに優しい眼差しを向けた。そして引き金にかかっているカーグの人指し指を外して、渾身の力で引き金を引き絞った。
 拳銃は暴発した。ハンはつぶっていた目をおそるおそる開いた。
 弾はピーターの頭からわずかに逸れて彼の耳横のマットレスをうがっていた。しかしハンはもう一度引き金を引く気にはなれなかった。――もっとも恐れていた金の瞳と目が合ってしまったのだから。

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