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 太ももを切りつけることが唯一の楽しみなら、いくらでも切らせてあげればよかった。ハンの「憧れの奥さま」はもうこの世にいないのだ。なんてことだろう! 勲爵士ピーターの「理想の家庭」がついに壊れてしまったのだ!
 ピーターがなぜ妻を殺したのか、いくら考えてもハンには理解できない。きっと、答えを教えられても理解できないだろう。ケイトはもともと穏やかで知的な淑女だった。嫌われる理由なんてなにひとつなかったはずなのに、殺されてしまったのだ。
 厩舎でもみな口々に言う。
「こればっかりは災難としか言いようがないな」
「おかわいそうに、ピーターさま」
 ケイトは原因不明の病に伏して亡くなったのだが、不老人間を作った『キメラ』博士に疑いが向くのを避けるためか公には「精神を患っての自殺」とされていた。ピーターは儚げな美形も相まって、おかしくなった妻に先立たれた悲劇の青年として世に映っていた。
「ユリエちゃんの遺影を持ってふらふらいなくなったり、ハンちゃんを傷つけたり、ほとほと手に負えなかったらしいじゃねえか。きっと神に裁かれたんだろう。それが自殺って形になったんじゃねえのかな」
 葬儀のあと、カーグの父親――事情を知らない余所者――が話しているのを聞いて、とうとうハンは誤解だと叫んだ。
「ケイトママは『自殺』じゃないわ!」
 泣きじゃくる里子にピーターは怪訝な顔をした。
「お前を傷つけた女だぞ。なぜ泣くのだ」
――パパはおかしくなってしまっている。
 妻の死に涙ひとつ見せないピーターを、殺そうとハンは思った。ピーターを独りにしてはならない。彼を天国にいる妻子のもとへ送り届けようと思った。たとえピーターが妻子を愛していなくとも、妻子がピーターを愛していなくとも、ハンの「理想の家庭」はばらばらになってはいけなかった。
 重たい猟銃を抱えて十三歳のハンはピーターの寝室に忍び込む。
 温かいベッドのなかで上質な絹のパジャマに身を包み、ピーターは安らかに眠っていた。口を開かなければケイトへの不満を言うこともない、完璧な父親であった。この優しい顔をとどめたまま天国へ旅立たせようとハンは心に決めたのだ。
 ぶるぶる震えながら、彼女は銃口をピーターに向けた。
「死んで。天国でユリエちゃんとケイトママが待っているわ。あなたもそこへ行くべきよ、ポルラムはかせ。一家のあるじなのだから」
 しかし彼は起きていたのだ! ぎらつく黄金の瞳が責めるようにハンを見る。少女はよろけて尻餅をつき、横暴な生みの親にわなわなと震えた。
「ひとり殺してもふたり殺しても変わらないか? お前を生み出したことは罪だった」
「ごめんなさい! ごめんなさい! でもはかせはユリエちゃんとケイトママといっしょになったほうがよいのよ」
 枕もとの灯りをともし眼窩に金縁のレンズをはめこむと、ピーターはのっそり布団からはい出た。大柄な彼の体躯はハンの視界をすっぽりと覆いつくして、彼女は恐怖でいっぱいになった。
 ポルラム家の厄介者として苛められてきたハンがなぜ他人の家庭の絆を繋ぎとめようとするのか、そのわけに思い当たったピーターはしゃがんで彼女に目線を合わせると子どもの頭を撫でた。そして軽蔑するのだった。
「お前は悲しい『キメラ』だな。そんなに愛されたいのか」
「愛されたい……愛してほしい。愛してちょうだい!」
 ピーターはごくりとつばを飲み込んだ。彼はしゃくりあげる少女を抱き上げて、乱暴な手つきでベッドの上に寝かせた。粗末なネグリジェから痩せた両脚が引き出されると、ハンは恥辱を感じて無駄な抵抗だと分かっていながらも身をよじらせる。
「愛してほしいんだろう?」
 ハンは怖くてだんだん身動きが取れなくなるのを感じながら、せめてピーターから目をつぶった。
「ちがう……。こうじゃない」
「私はこれ以外の愛しかたが分からないのだよ」
 低い声でピーターはつぶやいた。なされるがまま事が運ぶなかでハンの心音だけが騒ぎ乱れている。
――そんなはずない。だってユリエちゃんとケイトママと三人で楽しそうだったじゃない。
「私たちは共犯なんだ。同罪なんだ。ハンナ、私たちはひとを愛する資格も愛される資格もないのだよ」
 悲しそうな声にハンはそっと薄目を開けてピーターの顔を覗き見た。頭のなかがぐるぐる回ってハンは眩暈を感じはじめた。まるで自分にだけくるこの世の終わりを耳打ちされた気分だった。

「奇跡だ……」
 ピーターに擬態した『キメラ』は真っ直ぐにハンを見つめていた。その純粋な眼差しはハンを求めているようで、生前ハンに向けていた蔑みの目とは別人のようであった。しかし違和感はなかった。なんどもなんども夢に見ていたから。彼女は枕もとにしがみついて、嬉しいのか悲しいのか分からないけれど温い涙がこぼれて止まらなかった。
「泣かないで」
 蘇生したピーターの第一声はとても優しい言葉だった。
 ザキルカは距離を一歩置いたまま固唾を飲んでいたが、ピーターの脳が正常に動いていることを確認するとようやく飛びついてその顔を大げさに覗きこんだ。
「師匠! 具合はいかがですか?」
 ピーターは仰向けに寝た姿勢のままでザキルカのほうにちらり目をやった。口をわずかに開きかけたが、なにか思いだしたようにはっとしてまたつぐんでしまった。そのまま挑発的な目でザキルカをじっと見つめている。ザキルカがろうそくの光を向けると、ピーターは目を細めて「まぶしい」と顔を背けた。
 そっけない師匠にザキルカは笑みを消して、沈んだ声で尋ねた。
「あの夜、俺が迎えにこなかったから恨んでるんですか?」
「あの夜だなんてぼくは知らない」
 ピーターはいかにも怪訝な顔をしてザキルカをはねつけた。その一方で裸の上体を起こし、さめざめと泣き続けるハンをそっと抱きしめるのだ。
「泣かないで」
 いままで注がれたことのない強い愛情を感じてびっくりした彼女は泣くのをやめた。慣れていないせいか彼女はくすぐったくて恥ずかしい気持ちになった。しかしその行為は彼女が求めていた父親の愛情だった。彼こそまさしく理想の父親である。彼女はまぶたを閉じて、二十年にも長く及んだ親子の確執を取り戻すかのように、彼のぬくもりを存分に感じた。
「パパ、愛してるわ」
「ぼくも愛してる。ここが夢のなかでも」
 ピーターが腕を解くとハンは顔を上げた。険がとれてさっぱりした彼の顔にまばたきして、
「夢? 夢じゃないわよ」
「まだ完成されていないのかもしれません」
 後ろから深刻そうな顔をしてザキルカが言った。それを聞いたカーグは訝しげにザキルカを見る。
「どういうことですか? 叔父はいまどんな状態にあるんです?」
「彼の脳はまだ生と死の狭間をたゆたっているのかもしれない。きっと柔らかい、仮の状態なのでしょう」
 それでもいい。ハンは十分幸せだった。しかし、カーグはその答えに納得いかなかった。
「初めてだろう? どうしてそう言える?」
「大声を出さないでください。“形成”に刺激を与えてしまいますから」
 ザキルカは人差し指を立てた。無責任な生みの親にいらだちを覚えたカーグは、ピーターの状態を自分で確かめようと近づいた。
「叔父さん、僕が分かりますか?」
 ピーターは首を揺すった。ちょっとうつむいてからハンに不安げな目を向けて、
「この女の子はぼくの死んだおかあさんだ。それ以外分からない。なんて変な夢なんだ!」
 ピーターは死ぬ間際ハンを「エリザベス」――彼の母親の名前――で呼んだ。そのことを思い出してハンは胸がきゅっと締め付けられるのだった。
「夢じゃないのよ、パパ。現実なの」
 一縷の望みを託して、ハンは言葉を区切りながらはっきりとピーターに言い聞かせた。
 ピーターは戸惑いながらハンを見て、そして辺りを見渡しながら目を細めた。
「ぼやけてよく分からないよ。もしかしてオオカミに騙されてるのかな」
「ザックさん、眼鏡と服を取ってきて」
 ザキルカを走らせると、ハンは切実な思いで養父の両手をとり、祈るように握りしめた。
「パパ! わたしよ。ハンよ。あなたの娘のハンナよ」
「……パパ?」
 何度目かの「パパ」でようやくピーターはそれが自分に言っているのだと気付いた。しかしかえって混乱を招いたようで、状況を整理しようと彼は少し黙りこんだ。それでもまだ上手く飲み込めず、眉をひそめてハンの顔を覗いた。
「ぼくがきみの父親だって? うそだろう」
「うそついてなんになるのよ!」
「だって……これは夢なんだから」
 ピーターが叱られた子どもみたいにうつむいたので、彼がまだ自分を彼の母親と混同しているのだとハンは知った。いつの間にかピーターが赤の他人になったみたいで、ハンは底しれぬ不安を感じる。“憎しみという絆”さえ消えてしまったのかと。
「失礼ですが、あなたのお名前をおうかがいしても?」
 ピーターはカーグを見上げて、まるで警戒するように顔を強張らせた。
「……ピーター・ポルラム」
 その答えにカーグは軽くうなづく。しゃがんでピーターに目線を合わせると、さらに尋ねた。
「ピーターさん、あなたはなにをされているかたですか?」
 それを聞いてピーターはむっとした。感情が分かりやすく顔に出るのだ。
「どこにでもいる乞食ですよ。上流階級のあなたたちからしたらどうでもいいことでしょう……」
 ハンとカーグは顔を見合わせた。
「パパ! しっかりして。パパはわたしを作って成功したじゃない」
「よく分からないよ!」
 ピーターは首を振って頭を押さえ、阿片の幻覚を見たときみたいにうめきだした。ハンはうろたえた。どうしようと見回したが、彼を作ったザキルカはまだ戻っていなかった。
「ハンナ。ザキルカさんは脳の形成がどうとか言ってるけど、僕たちは真実をつきとめるべきだろうか」
 ハンは固くうなづいた。カーグはピーターが落ち着くのを待ってから、不安定な彼を傷つけないよう優しく声をかけた。
「ピーターさん、僕たちはあなたのことをなにも知りません。もっと知りたいのです。だから、もう少し教えていただけますか?」
 「うん」と頷いて、ピーターはカーグの容貌になにか気がついたらしくそのまま眺めている。
「あなたはペガーズを飼っていますか?」
「あれは……父さんの馬です。貴族の家から持ってきたんです。……ぼくのお父さんは公爵のブリンガル家から駆け落ちしてきたんです。だから家は貧乏で、あのペガーズはゆいいつの宝物なんです。でも父さん売ろうとしてるんだ」
 ハンとカーグは顔を見合わせた。明らかにふたりの知らないピーター・ポルラムであった。カーグはピーターに厳しい目を向ける。
「きみはいくつなんだい、ピーター?」
「……ななさい」
「なんだって!」
 ピーターの返答に一番驚いた声をあげたのは戻ってきたザキルカだった。ハンとカーグはピーターの返答よりもザキルカの驚きように戸惑う。
 小じわのある目もとに眼鏡をはめてやりながら、ザキルカは自分の耳を確認した。
「三十七歳?」
 するとピーターは首を振って否定し、手のひらの五本指に二本の指を添えるのだった。
「ななつ」

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