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 聡明で気力に満ちた中年男の声をハンは覚えていた。ぴかぴかに磨かれた真鍮のドアノブに向かって、彼女は声を整える。
「ちょっと待ってくださる? 着がえるから」
 とりあえず三十分の猶予を作ることができた。けれど場を逃れる隙は無く、思い悩むほどの時間さえ足りなかった。揺れる心は最早縛り付けられた。彼女は粛々と身支度を整えていった。
 そして――ひとつの区切りがついてハンが自首を決心したのを見透かしたようなタイミングで、レスター警部はドアノブをひねった。彼は山高帽を脱いで薄くなった頭を見せながら「どうも。ポルラム嬢」と会釈する。矢継ぎ早にふたりの部下が入ってきて、違法『キメラ』の痕跡は瞬く間に固められてしまった。
「レスター警部……これはただの死体ですわ」
「そういうことにしておきましょう」
 安らかに眠るピーターを一瞥してレスターは微笑した。
「手厚く葬りますよ。墓泥棒対策として夜間の警備も強化しますから安心してください」
「ありがとう」
 目を細める警部の髪はレースのカーテン越しの柔らかな日差しに透けて亜麻色に染まっている。そこにハンは後光を見たのだ。
 レスター警部はピーターが生きていたことを、なにを持って知り駆けつけたのであろうか。エマに託した手紙を読んだにしては早すぎると思った。ハンとカーグがエマのもとを離れてからまだ二日しか経っていないのだから。
 ハンが顔を上げると、ちょうどザキルカが私服警官に連れられて部屋に入ってきた。カーグも一緒だった。ハンの知らないところで事は運んでいたのだった。――ザキルカの手は重々しい手錠で拘束されている。
「自首をしたの?」
「いいえ、すでに捕まっていたのです。半年前にね。レスター警部は半年前にピーター・ポルラム殺害事件の犯人をすでに突き止めていました」
「なんですって」
 素っ頓狂な声を出してハンはレスターの顔を見やった。
「貴方の助言通りに警察が墓を調べましたところ、彼に辿り着いたのですよ。ポルラム嬢」
 狐につままれているハンのためにレスターが軽く説明してやると、彼女の視界は鮮明になるどころか真っ暗になった。ザキルカが捕まるのを楽しみにしていた日々を彼女は思い起こした。あのとき投じた駒は生きていたのだ。
 警部は被疑者としてのザキルカに心なしか非情な目を向けていた。哀れむようなハンの視線に気がついたザキルカは、
「でもね、俺は貴女の罠にはまっただけで殺してはいないんです! 主犯は貴女です!」
 続き部屋や天蓋のなかまで聞こえる強くはっきりしたテノールでそう主張して、にやついた。
「うそだ……」
 ザキルカとハンを交互に見て、カーグはわなわなと震えた。ハンは悲痛な面持ちで首を横に振るのが精いっぱいだった。
「けれど貴女は法で守られていて裁けない」
 警察に監視されながらザキルカはハンの目を見て続ける。彼は公には逮捕されたが、ハンに対しては己の信じたひとすじの正義を貫こうとしていた。
「それで『不老不死プロジェクト』を廃止したのね、ザックさん」
 ザキルカは挑発的な笑みをしてうなづいた。
「その通り。でもそれだけでは弱かった。貴女に罪を犯させた責任が俺にはかけられていました。だから半年間待ってもらったんです。状況を覆すために」
 周囲を固めるがたいのよい刑事の刺すような視線を感じたザキルカは、そこまで言いきるとばつが悪そうに口ごもってうつむいた。なんということだろう。ピクネシアを招いて晩餐会を開いたとき、すでに彼は捕まっていたのだ。そして痛々しくもピーターを生き返らせようとした彼を思い、ハンは友人を貶めた自身を強く責めた。
「警部さん、ザキルカ卿を解放してください。わたしが殺したんですわ」
 彼女はそろりと歩み寄り、指を組んで、レスター警部に縋る目を向け悲痛な声で訴える。そうせずにはいられなかった。
 「ラズリ=キリミネには死体損壊の罪がありますから解放するわけにはいきませんが……」と、警部は眉根を寄せながらハンをうかがい見て、
「しかし安心してください。貴方の供述次第です」
 彼の沈黙には選択肢があるようで一択しかなかった。ハンは覚悟を決めた。
「わかりました」
「ハンナ! 僕は信じない! お願いだから嘘だと言ってくれ!」
「カーグ」
 今ならまだカーグの胸に逃げ込めるかもしれないと、ハンの心に甘えがうずく。しかし後ろを見ればピーターの死体はすでに警察のものとなり、前を向けばザキルカが拘束されていた。逃げ道など存在しないし、もう逃げてはならないのだった。
「カーグ。パパのためにわたしは罪を償いたいの。勝手でごめんなさい。最後のわがままだから」
「きみがなにをしたっていうんだ!」
 顔を思いきり歪めて叫ぶカーグにハンは胸が張り裂けそうになった。
「柱時計の針を動かしたのよ!」
 その瞬間、室内の人間はおろかレスター警部が擦ったマッチの炎までもがときを止めた。だれもが紅一点の可愛らしい少女を見て息を飲んだ。少女は艶やかなシフォンの裾を絨毯にすべらせて、しずしずと彼らの中央に立った。彼らはあどけない顔に隠されている残忍な微笑を探したが、喪服を身にまとった少女の悲壮さが感じられるばかりである。その場にいるだれもが彼女に憐れみを抱いてしまった。
 しかし経験豊富なレスター警部だけはいたって沈着であった。
「もう少し具体的に教えていただけないでしょうか?」
 うなづいて、ハンは周囲をぐるりと見渡した。カーグもザキルカも真剣な顔でこちらを見つめている。高鳴る鼓動を抑えようとハンは胸もとに手を当てて、
「うまく言えるか分からないけれど」
「出来る範囲で結構ですよ」
 レスターはぎらつく脂ののった顔をぴくりとも動かさず、ハンから決して目を逸らさなかった。

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