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 すでに拘束されているような息苦しい気分になりながら、まばたきを一回してハンは口を開いた。
「十月二十三日……お昼すぎ、監督のソルディ博士は養父の番をザキルカさんに頼んで、ポルラム邸をあとにしました。彼女は一週間は帰ってきません。博士の留守は日ごろから考えていた養父の“事故死”を決行に移すよい機会でした」
 ハンは低すぎず高すぎない自分のいやに平静な声を耳で聞いていた。レスターが口を挟む。
「阿片患者に無理強いして煉炭術実験を行わせていたソルディ博士が不在だと都合がよかったわけですか」
「彼女――研究所は養父の死を望んでいましたが、それはあくまで“事故死”を待つことでした。ザックさんもそう。しかしわたしはそれまで待てなかったのです。だから“事故死”を作り出すことにしたんですわ、レスター警部」
 彼女はレスター警部ひとりだけを見て話していた。カーグやザキルカを見てしまうと言葉が舌の奥でもつれて出てこなくなってしまうので。
「あのとき、夜なかの十二時前にカーグはわたしの部屋を出ていきました。これは以前お話しましたね。わたしは寝る支度を始めました。ネグリジェに着がえたわたしは布団に足を入れてジョゼットさんに『冷たいわ』と言いました。そして彼女に湯たんぽを作ってくるように命じました。こうしてわたしはいっとき侍女の目から逃れることができたのです」
「おやおや、アリバイが崩れましたね」
 否定せず微かにうなづいたハンは、あどけない唇を動かして真相のもやを徐々に解いていく。
「わたしはベッドを抜け出してザキルカさんの研究室を訪ねました。そしてザキルカさんにコーヒーを沸かして淹れてあげ、一緒に持ってきたクッキーをすすめました」
 タバコを吸うため窓際に移動していた警部は、眩しさの薄らいだ曇り空を見ながらふっと紫煙を吐き出した。
「コーヒーとクッキーにはなにか入っていたのですか」
「いいえ。おいしいだけですわ」
 そう言ってハンはにっこりと笑む。そして深刻な表情になって、絨毯の柄に視線を落として話を続けた。
「どうやって“事故死”を作りあげるか……。阿片中毒で歩けなくなった養父を『煉炭術開発実験』の担当に回した研究所側にだって殺意はありました。それは、『煉炭術開発実験』には水銀中毒死がつきまとうからですわ。養父は調子の悪いときには幻覚を見るのです。研究に没頭するあまり部屋に水銀が充満していることに気付かない、というのはありえました。彼はそんないつ死んでもおかしくない危うい状態にあったのです。だからほんの少し手を加えるだけでよかったの。これが非力なわたしにも殺害することができた理由です」
 顔を上げて、ハンは残りを供述しきるために自身を勇気づけようと微笑んだ。それは自嘲の色をわずかに見せたが、張りつめた空気に順応してすぐに消える。ザキルカの顔を盗み見て、鈴のような彼女の声は少し震えた。
「わたしは事前に――寒くなる夕方、研究室の窓に外から水をまいて開きづらくしておきました。養父を十二時に迎えに行くのはザキルカさんの役目でした。つまりわたしはザキルカさんを足止めすればいいのです。養父が細心の注意を忘れて部屋に長くいさえすれば、水銀中毒死は“五分五分”――養父の“事故死”は偶然が引き起こしたものでなくてはなりませんから――で成功するんですわ」
「しかしどうやって? なぜラズリ=キリミネは約束の時間を忘れてしまったのでしょう」
 自身の鼓動で息がしづらくなってくるのをハンは感じた。胸が押しつぶされそうだった。彼女は息を深く吸いこんだ。
「わたしが柱時計の針を動かしたからです!」
「彼に気付かれずにそれを上手くやってのけたと」
「そうです」
 中央に立って身をさらし四方八方から視線を浴びるのに耐えられなくなったハンは、室内のソファーや観葉植物のあいだをすり抜ける幽霊みたいに散漫と歩きはじめた。それでも珍奇なものを見たい視線は彼女のあとをしつこく追うのだった。
「さきほどわたしが言ったことを思い出してください。ジョゼットさんが湯たんぽを作ってくるあいだに、わたしはベッドを抜け出して戻ってこなくてはなりません。だから着がえるひまなどなかったの。つまり、わたしはネグリジェ姿でザキルカさんに休憩をすすめたことになります」
 そういってハンは顔を赤らめた。幻滅するカーグが目に見えるようで、彼女は彼の顔を覗くのが恐ろしくてなるたけ見ないようにしていた。天蓋から垂れるカーテンの毛羽立ちにじっと目を凝らしながら、
「わたしのネグリジェ姿を初めて見たザキルカさんは思惑どおり動揺しました。これが原因でザキルカさんは言いのがれができなくなってしまったんです。だって、ザキルカさんの名誉にかかわることですものね」
 頭に血がのぼっていた。興奮して息遣いが荒くなるのを感じながらハンは振り向いて部屋中を見渡し、清々しい声で言い放った。
「事実、手を出していないにせよ、ネグリジェにうろたえて彼は三十分はきちがえたんですわ!」
 うろたえてわなわな震えているザキルカを尻目に、ハンはレスター警部のそばへ歩み寄った。
「ザキルカさんがコーヒーを飲み終わるまえに、わたしはすみやかに部屋を出ていきました。ジョゼットさんが戻ってきたころにはもうベッドで眠っていましたわ――なにくわぬ顔でね」
 そう言ってハンは手錠をかけてくれるように両手を警部に差し出したのだ。ナイフひとつうまく握れないような聖女の手を見てレスターは息を飲んだ。
「わたしをつかまえてください」
「真実か、ラズリ=キリミネ」
 レスターは目では手錠をかけるけれども実物の手錠はまだかけないままで、供述の裏付けをザキルカに求めた。
「真実です。可愛い子どもの姿だからといってだれもがハン・ヘリオス・ポルラムを侮っていたのです。彼女がひとりで計画を練ってそれを巧みにやりおおせるとは思っても見なかったんです!」
「はやくつかまえてください」
「ハンナ!」
 カーグの声に惹かれて振り返ったハンは泣きそうな顔で笑った。
「カーグ、あなたってどこまでおひとよしなのかしら」
「僕はきみの夫じゃないか」
 頬を大粒の涙で濡らしながらハンは首を揺すった。
「僕たちはふたりでひとつなのに」
 駆け寄って抱きしめようとするカーグをハンは両手で突き離した。最後くらい彼と抱き合いたかったが、迷惑をかけたくない気持ちのほうが勝っていた。もうすぐ死刑になるかもしれない犯罪者とは離縁させるのが彼のためなのだ。急いでハンはレスター警部を仰ぐ。
「わたしを逮捕してください」
 すると横から、
「警部! 僕を逮捕してください! 僕は死んだ叔父と同性愛の罪を犯しました。叔父に阿片をすすめて殺人未遂もしました」
「カーグ、ばかなことしないで!」
 ハンがカーグを止めようとドレスの裾をもちあげたとき、ふたりは警察に取り押さえられ、それぞれに手錠がかけられたのだった。かちゃりと鍵がかかった音を聞いて、ハンは全身の力が一気に抜けおちてしまった。長いあいだ抱え込んでいた罪がようやく明るみになってもう逃げなくて済むのだとほっとしたのと、この世で一番大切なカーグまで捕まってしまったこと、その両方が彼女の気力を奪ったのだ。
「きみが捕まるのなら、僕も捕まる。それが僕の愛だから」
 カーグは自分にかけられた手錠を見て満足げに微笑むのだった。そんな愛しかたは間違っているとハンはカーグに伝えたい。けれど、胸が詰まって声が出せない。そんなふたりの恋愛模様に「水をさすようですが」とレスター警部は表情を曇らせた。
「ソーンさん、残念ながら貴方は奥さんのもとへは行けません」
「どうしてですか? 僕の罪が軽いというのなら、重くしてください。ハンナのいない娑婆なんて生きていけやしない……」
「貴方の罪の重い軽いではない。貴方が二度と彼女と一緒になれないわけはですね……ポルラム嬢は極寒のレッガス研究所に行くからですよ」
 倒れそうなハンをツイードの腕で支えながら、彼女を刺激しないようにできるだけ柔らかい口調を選んでレスターは苦笑するのだった。
「馬鹿な……『不老不死プロジェクト』は廃止されたはずでしょう? 裁けないはずありません」
 今度はザキルカが納得できないといった風に身を乗り出した。レスターは肩をすくめて、
「それが裁けないんですよ、ザキルカさん。確かにプロジェクトの廃止で彼女を保護しなければならない法律は消えました。しかし彼女は『キメラ』です。『キメラ』をひととして裁くことのできる法律はまだ存在しないんですよ。だから我々はハン・ヘリオス・ポルラムを研究所へ護送することしかできなくてね」
「なんですって!」
 至近距離で聞かされる紳士的なだみ声にハンは鳥肌を立てた。
「罪を償うときまでわたしは人間にはなれないの」
 ザキルカの嘲笑が耳についた。彼は取り押さえられながらも、ここぞとばかりにあがきハンに向かって暴言を吐く。
「貴女に相応しい最期じゃないですか! ひとに害を与えた『キメラ』は『モンスター』と呼ばれ、殺処分の対象になるんです。せいぜい苦しんで死ねばいい」
「そんなのってないわ!」
 もっともゆずれない尊厳を傷つけられて、ハンは黙っているわけにはいかなかった。手錠を外そうとがちゃがちゃいわせて彼女は警部に押さえつけられる。手を伸ばせないから代わりにありったけの声で愛するひとの名前を呼んだ。
「カーグ!」
「ハンナ!」
 カーグもまた拘束の身で叫ぶが、ふたりの距離は遠すぎた。彼はレスターに訴える。
「僕もレッガス研究所へ送ってくださいませんか? 『魔女』の人体実験でも奴隷でもなんでもやるから、行かせてください!」
 血相を変えるカーグは沈着冷静に否定されてしまう。
「どうして」
「だめですよ、カーグさん。ハンナさんは独りで惨めに死んでいかなくちゃ。研究所行きとはいえ、死を待つ囚人なのです」
 ふたりを不幸にすることが唯一の楽しみであるかのようにザキルカが追い打ちをかける。引き裂かれようとするふたりは悲痛な声を響かせた。
「ハンナ!」
「カーグ!」
「ひとを殺して幸せになろうだなんて、許されないんだ! さようなら! もう二度と会わないでしょう」
 警察に連れて行かれながらザキルカは捨て台詞を吐いた。幕は閉じた。ザキルカとカーグを載せた黒塗りの護送馬車が発車するのを見届けないうちに、ハンは獰猛な熊やシメールでも載せるような南京錠付きの貨物馬車に載せられてしまった。もう一度「カーグ」と叫んだが、乗り心地の悪い箱の内に虚しく響くだけだった。

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