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 「着いたぞ」といった意味合いの言葉をかけられて、ハンは泣き腫らした顔をあげた。
 馬車から列車、蒸気船を乗り継いで十二日目、とうとうレッガス研究所に来てしまった。猛獣扱い、貨物扱いで護送されていたためどこを走っているのかさっぱり分からず不快な道中であったから、乗り物から降りて土を踏めることがとりあえずハンには嬉しかった。
 極寒のレッガス公国は夏といえども涼しく、シフォンのドレス一枚では少し肌寒いくらいである。遠い異国へやってきたという実感があった。ハンが慣れ親しんだ赤レンガのナール研究所はカーグいわく工場や救貧院に近いらしいが、山奥にそびえる白壁のレッガス研究所は彼女にとってまさにこの世から切り離された監獄だった。
 いつの間にかレスター警部の管轄から外れており、ハンを連れて歩くのは白髪交じりをひっつめている銀縁眼鏡の女性だった。彼女の眼鏡の奥にはルビーのような赤い瞳――「魔女」の瞳――が光っていた。
 彼女の言葉はレッガス語のようだが、早口でハンにはほとんど聞き取れない。白衣の下に着ている絹で織られた美しい群青色のプリーツスカートの股は不格好に分かれていた。エマが履いているやつと同じだ。あんまりよくすれ違うので、もしかしたら研究員の制服なのかもしれない。廊下の端っこをハンはうつむいて歩いているけれど、夜空色の喪服ドレスは雪原に紛れ込んだ夏ウサギのごとく白衣の捕食者たちの目をひいていた。
 大理石の廊下をまっすぐ進んでいると、真向いから五人の付き人を伴った熟練らしき老婆が現れた。すれ違いそうになったそのとき、その場に居合わせた人々のだれもが統制されたように目を伏せて隅へ退いたのだ。薄目を開けたハンは老婆の裾を引きずる白衣の豪奢さに目を疑い、目を奪われてしまう。あの老婆が自分の命を握っているのかもしれない。そんな考えがちらり浮かんでしまうと最早そうとしか考えられなくなってハンは顔を上げることができず、生きた心地がしなかった。流罪の地レッガス研究所は囚人のハンにとって二度と出ることの叶わない死に場所であった。レッガス公国が「赤い眼の魔女の国」と呼ばれる所以を彼女はひしひしと感じていた。黒魔術まがいの錬金術を使う研究員は全員「魔女」なのだ。とんでもないところへ来てしまった。「魔女」――金細工の髪飾りをしゃんしゃん鳴らしながらふてぶてしく歩くあの赤い眼の老婆にハンは食べられてしまうかもしれない。
 しかし連行人は「魔女」の前では立ち止まらずにハンの手をひき、両開きの扉を押し広げて裏庭へ連れて行った。とたんに春の日差しがハンの身体を温め、花の香りが彼女を安堵させた。思わず彼女は足を止めた。見上げれば満開のライラック。レッガスの女たちみたいに気高い紫色の花房が、柔らかな色の青空に揺れている。しかしハンが心を奪われているのも束の間、口数少ない連行人は花の重みでしなっている枝の下を潜り抜けていく。さっさと行ってしまう彼女を見て、慌ててハンは追いかけた。異国の地で頼れる人間はいまのところ彼女しかいないのだ。はぐれるわけにはいかない。
 木造の建物にハンは粗末な印象を持っているが、この建物は角材が蝶番のごとくみっちり隙間なく縦横に組み込まれておりレッガス人の手先の器用さに感心してしまう。研究所の離れはナールの大聖堂にあるような玉ねぎ型の丸屋根で、そこはかとなく神秘的であった。言い知れぬ不安と淡い好奇心を胸に抱きながら、案内人を頼りに彼女はおそるおそる進んでいった。
 研究所本館とは打って変わって、犯罪が日常茶飯事であるがため道行くひとは見てみぬふりをしてだれも止めようとしない巨大な暗黒街がそこには広がっていた。きゅん、と胸が締め付けられるのをハンは感じた。嫌な予感がする。両脇には鉄格子が延々と続いている。金属製でそこだけ冷たい感じのする檻のなかを覗いてみれば、目がただれていたり脚が足りなかったりする様々な種類の動物が収容されているのだった。
 ハンはくちもとを両手で覆い、声にならない悲鳴を飲み込んだ。口もとに湿疹のある初老のシメールが牙の無い口で檻を噛んでいる。頭が三つどころか五つもあるセルベル犬はかわいそうに、ふたつの頭がぎすぎすに痩せこけているではないか。はす向かいの檻を見れば、隅で水ばかり飲んでいるコカトリスの翼は骨が変形して上にねじれてしまっている。くちばしをつけたポニーは鞭の跡が赤剥けになっていて痛々しく、思わずハンは目を逸らした。きっと彼らは「失敗作」や「モンスター」と呼ばれる『キメラ』で、牢獄みたいな檻に閉じ込められて殺処分を待っているのだろう。
 ときどき連行人は立ち止まって檻のなかを指差し、ハンになにか言っている。「気をつけなさい」とだけ聞き取れた。それをハンは「おとなしくしていないと死期を早めるから気をつけるように」と解釈した。もし逃げ出そうとあがけば、脚を折られてしまうかもしれない。連行人は女性の臓器を数多く自身に移植してきたエマ先生や煉炭術開発のためなら犠牲をいとわないソルディ博士と同じ国のひとである。笑顔を見せない義務的な彼女なら躊躇なくハンを殺せるはずだ。ライラックの下では友と思えた四十がらみのその女の白っぽい頬に、ハンは赤みを見出そうとするが鉄面皮には血が通っているのかよく分からない。ハンは下を向いた。
「ハン・ヘリオス・ポルラム!」
 振り向くとそこに息を切らしながらやってきたのは、垂髪のエマだった。懐かしい顔を見たハンは急に目頭が熱くなった。抑えていた甘えたい心が堰を切って、
「エマ先生?」
「ドリーよ。ドクター・ドリー。『エマ』は心臓の持ち主の名前なんだわ」
 ハンの抱く感情とは裏腹に、エマことドリーは厳しい表情で彼女を見つめるのだった。
「エマ先生、助けて」
 けれどもエマはハンの声が聞こえていないかのようにハンの連行人とレッガス語の唸るようなアルトで意思疎通を取っている。レッガスでのエマは赤い眼こそ無いものの「魔女」の老婆と同じ威厳を備えていた。それはハンにとって見慣れないものだった。
 そしてエマがようやくハンに向けたのは、眼鏡越しの冷たい眼差しであった。
「あんたが殺したんだってね」
「先生」
「自業自得だわね。ピーターってば、研究所で育てたほうがいいって言ったのに聞かないから。お屋敷なんかで暮らしていればそりゃ欲も出るわ」
「わたしは殺処分されるしかないの?」
 頭が真っ白になりながらハンは彼女を実の娘のように可愛がってくれたエマ先生に泣きそうな声で訴える。しかしエマがもう二度と笑いかけてくれない理由を彼女は知っている。
「あんたは自分が人間だなんて勘違いしてしまった不幸な『キメラ』なのよ」
 ハンの頬を堪えきれない涙がとめどなく滑り落ちる。震える声で彼女は言った。
「わたし、悔いているわ」
「もっと悔やみなさい。それしか道は無いわ」
「待って」
 もう手に負えないといったようすで頭を振ると、エマはきびすを返して行ってしまった。ハンを監獄にひとり残して。こんなところでエマに会いたくなかった。死ぬまえに醜い囚人の顔を見てほしくなかったのに。
 突き当たりのドアを開いて、連行人が入るように命じた。痛々しく陳列された殺処分待ちの見本をいやというほど見せられたのちに、ようやくハンは自分の檻に放り込まれたのだった。連行人はすばしっこいサラマンダー・トカゲが這いずっているガラス容器を火の代わりに暖炉のなかへ入れると、速やかに出ていった。ハンは急いでドアノブをひねってみたが、外からは鍵がかけられている。彼女はがくりとうなだれて絨毯の床にくずおれた。とうとうひとりぼっちになってしまった。色褪せて黒ずんだ絨毯を触ると苔が生えていた。彼女は鼻をすすった。ほこりっぽくかび臭い部屋である。
 しかし、まだ平気だ。これくらいポルラム邸の里子時代に比べたらなんともない。ひとりになってあらためて室内を見渡したハンは不思議な感じがした。罪びと――いや、「ひと」ではない、とハンは首を振った――ひとに危害を加えた『キメラ』の檻とはとても思えないのだ。殺処分待ちのモンスターを閉じこめておくには、あまりに居心地がよすぎる部屋だった。鉄格子だってついていない。里子時代に厩舎でわらをかぶって寝たことがあるが、ここはちゃんとした人間用の部屋である。しかも屋根裏部屋のように窮屈ではない。エマの研究室の生臭さに比べたらかび臭いくらい大したことはない。十分清潔だ。ベッドと暖があるから凍死する心配もない。さらにベッドの下にはおまるが入っているし、腰湯ができるヒップ・バスやお茶ができるひとり用の小さなテーブルに本棚まで付いている。これなら一年くらいは部屋から一歩も出なくとも暮らしていけるかもしれない。
 希望が見えてきたとき冷たい風が吹いてきて、ハンは開け放された窓のほうへ歩いて行った。吹き抜けた窓の外には何年も手が加えられていない『エリザベス』がうっそうと生い茂っていた。どうしたものか、とハンは腕を組む。凶暴化した薔薇の木のせいで日光が遮られてしまっている。そのため部屋は薄暗く寒々しいが、窓の立てつけが悪いため閉めることができないのだ。これでは冬になったら凍死してしまう。黒々とした不気味な薔薇の花をハンはうらめしそうに見つめた。生きるためになんとかしなければならない。
 ハンは部屋じゅうの引き出しを開けて枝が切れるものを探しはじめた。ようやく鉛筆を削るナイフを見つけて手に取ろうとすると、底に敷いてある紙になにか書いてある。気になったハンはそれを一枚とって火のように発光するサラマンダー・トカゲにかざしてみた。鉛筆で下手な鳥の絵が描いてある。彼女ははっとした。その絵には見覚えがあった。急いで他の紙を取り出してみると心当たりがたちまち確信に変わり、彼女は息を飲んだ。
「イラージェ・アラゴン・リボルダム」
 それは紛れもなくハンを産んだ女性の名前だった。その名前だけが紙にびっしりと何度も繰り返されており、ときどき「d」が「b」になっていたり、「R」の向きが逆になっていたりする。まるで書き取りの練習だとハンは思った。幼児みたいに下手な文字の主はイラージェの名前が書けるようになりたいのだ。それは誰だろう。ふと目を上げると書き取りの一番上にはお手本が書いてある。それは鳥の絵と照らし合わせてみても、まさしくピーター・ポルラム博士の文字に間違いなかった! ハンの胸は高鳴った。
「イラージェ。……これがイラージェの文字。二十年前、この部屋にイラージェがいたのだわ」
 そのときのままだなんて。目頭を熱くしながらハンはその紙をもう一度見つめる。彼女はかみしめるようにゆっくりとまばたきした。書き取りにふたりのやりとりが感じられてほほえましかった。エマはふたりの仲が壊れただなんて言ったけど、そんなことはなかった。
 強い風がびゅうと吹いてハンの身体をふたたび震わせたので、彼女はナイフを取って邪魔な枝を切りはじめた。小鳥の足ほどの細く小さな枝から少しずつ取り払っていく。二十年前この薔薇は窓枠を額縁にして美しい絵画をイラージェに見せていたはずだ。その光景が見たいとハンは思った。ピーターがイラージェに見せた幸せの青い薔薇をハンはどうしても見たいのだ。

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