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 固くなったパンをかじって空腹をしのぎながら厄介な木々と格闘しているうち、ハンは土に潜っている紙片を見つけた。まちまちのいびつな形をした親指の爪くらい小さな紙片は千切ったひとにとってはごみだったが、ひとりぼっちで死を待つ囚人が拾えばそれは慰みとなった。ハンは古い紙片が朽ちてしまわないよう優しく手のひらにのせて、殺風景な室内へ運んだ。ここで暮らしてようやく丸二日が経とうとしているが話をする相手はおらず新聞も読ませてもらえなかったので、外界がどうなっているのかさっぱり分からない。このまま二十年経ったとしても、いつまでも子どもの姿では流れるときを感じられないであろう。二十年前イラージェが暮らしたこの部屋ごとハンの時間が止められてしまったようで、『キメラ』の鳴き声が聞こえるたびハンはたまらなく不安になるのだった。
 狭い隙間を利用した本棚の隣に質素な机が添えられていた。風雨にさらされて浮き出た木の筋が書き味の悪そうな書き物机である。一番上の引き出しをハンが開けると、さきほど拾った紙片の仲間が八枚あった。彼女はそれを全部机の上に並べて、新入りの紙片に目を凝らした。そこにはタイプライターのアルファベットがくっきりと刻印されている。
「『mma』……『エマ』? 先生と同じ名前ね」
 紙片には大きく分けて二種類あった。タイプライターで女性名を打ったものが大半であるが、一枚だけインクの線が入っている紙片があった。「ee」と辛うじて読めることから、彼女はそれが手書きの線であると推測した。彼女は指先に掴んだ紙片を持てあます。そしてぼんやり考えた。タイプライターにせよ手書きにせよ、ふたつに共通しているのはどちらも文字であるということ。つまり集めれば集めるほど情報が多くなり、もし千切る前の形に復元できるならばそれらは意味を成してくるだろう。
 この最も難儀なジグソーパズルに時間と労力を費やす価値は十分にあった。それはだれかが千切って庭に撒いたものなのだから。紙片の種類が単純なことから考えてもそれが意図的に撒かれたものだとうかがえた。そのひとが燃やさずあえて庭に残したのは、それが意味のあるものだから。
 そしてここからの推理はハンの希望的観測になるが、千切って『エリザベス』の庭に撒いたのはイラージェかピーターのどちらかだ。ひょっとして、イラージェが憤慨して破り捨てたラブレターなのかも。読んでもらえなくてピーターが破いたラブレターなのかも。
 どちらかといえば、ハンにはピーターのような気がしてならなかった。燃やさなかったのは、見つけてほしくて。だれかに。ハンに! ハンがイラージェの部屋に軟禁されたのはきっと運命なのだ!
 ハンは精力的に紙片を探し始めた。偶然見つけたものだったが、おかげでいまや紙片を探すために枝を切っていた。
「『mma Wi』だから、きっと『エマ・ウィリアム』とかだわ。先生じゃない――そもそもあのひとの名前は『ドリー』だったわね……」
 エマとはあれ以来会っていない。やるせなくてハンはため息をついた。
 紙片を集めていくうちにラブレターの線は薄くなっていった。無機質なタイプライターの文字は研究所の書類のように思われた。相変わらず女性の名前ばかり出てくるので情報は平行線だ。ジグソーパズルは一向に完成しそうもなかった。
 ハンは『エリザベス』を見上げた。来る日も来る日も枝を切り続けているが薔薇の色はいつまでたっても暗いままである。見つめていると気分までどんより暗くなってくる。枝は固いし、なにより強烈な薔薇の香りは空腹にこたえる。もがいても意味のないことかもしれない。紙切れを解読してもハンはやがて殺処分される運命にあるのだ。ひもじい上に窓の閉まらない部屋は寒く、彼女は自身のみじめさにすすり泣くのだった。
「パパ。イラージェ。もう限界だわ」
 涙が乾かぬうちにハンは決心して立ち上がった。殺処分を待つ『キメラ』の檻に通じているドアを思いきり叩いて叫ぶ。
「開けて! はやくわたしを殺せばよいじゃない! エマ先生! わたしを殺して!」
 しかしそのドアは言葉の通じないレッガス人が食事を運んでくるときしか鍵が開かない。叩き続けて拳がじんじん痛くなり、ハンは駄目押しに強く一回叩きつけた。そのとき開け放しの『エリザベス』の窓から冷たい突風が吹き込み、ハンの後れ髪を乱した。勢いをそぎ落とされ、彼女はその場にへたり込む。風は薔薇の枯れ葉とともに椿のようにもげた不吉な薔薇の頭を転がしてくる。その花に手を伸ばしたとき、一斉に吹き込んできたジグソーパズルのピースを見つけてハンは目を見開いた。
 慌ててかき集めたそれをハンはひとつひとつ精査していく。それは数少ない手書き文字の欠片だったのだ。これで手書きの文章が完成するかもしれない。手書き文字の欠片を机上に広げて順番を並べ替えているうちにそれがピーターの筆跡だとハンは確信したのだった。閉まらない窓を見やる。次の強風が来る前にパズルを完成させなくては。
 高ぶる心音に指を震わせて、ようやく辿り着いた文章にハンは息を止めた。
『イラージェと――の子、百人の妊婦よ、安らかに眠れ』
 ハンは口もとを両手で覆った。ありとあらゆる点と点が繋がってしまった! タイプライターに刻まれた女性名は「百人の妊婦」を示しているのに違いない。
――叔父は母親に神秘を感じていたんだ。とりわけ妊婦にね。――
 目の前が真っ暗になって、風を遮る両手の中に包まれた文字だけが生命を持ったようにせせら笑って踊りはじめる。ああ、信じたくない。胸が悪い。残酷なことが確かにピーターの筆跡で書かれていたのだ。
「材料なんて……知りたくなかった……。わたしはもう死ぬしかない。死んでも救われない……。どうしよう」
 しかも犠牲になったのは妊婦だけではない。彼女たちのお腹にはそれぞれ子が宿っていた。だから百人どころじゃない。少なくとも二百人分の命がハンを創るために奪われたのだ。双子や三つ子の可能性を考えたらもっと途方もない数字になるだろう。
――パパ、わたしが母親になれない理由が分かってしまったわ。
「パパはわたしを憎むはずだわ。百人の妊婦を殺して生まれてきたのだもの」
 むかむかする胸を混ぜ返すように濁流の涙がこみあげてくる。ハンは過去からの手紙を感覚の無い指で握りしめて泣き崩れた。
「カーグ……」
――カーグ……ついにわたしが化け物だって証明されてしまったわ。
「たすけて……」
 部屋はしんと静まり返っていた。『エリザベス』の花は相変わらず黒々として、お化けみたいにゆさゆさと揺れている。
「イラージェは青いばらに包まれて死んでいったけど、わたしは黒いばらを見ながら死んでいくのね。なんてお似合いなのかしら。これはきっと、パパがわたしに残したメッセージなのだわ」
 ハンは材料が記された紙片を両手に握りしめてそれを『エリザベス』の根元に撒いた。
「青いばらは幸せのばら。自由への希望。黒いばらは美しくない。目立たない。それは弾圧を逃れるために仮面をかぶっているから」
 冷たい土に身を転がしてハンは仰向けになった。生い茂る『エリザベス』が空を覆い隠していて、日の光はひとすじも入ってこない。
「永久に日の目を見ることもない」
――化け物!
 たまらなくなってハンは駆けだした。引き出しからナイフを取り出して叫びながらハンは無茶苦茶に枝葉を切りつけた。しかし黒い薔薇はびくともしない。それどころかうっそうとハンの胸にはびこっていくようだ。やはり鉛筆削り用の小さなナイフではたかが知れている。鈍い灰色をした子どもだましな刃を彼女はうらめしそうに見つめて唇を噛んだ。
 なにも考えずに返した手首は自然と刃先を首もとにあてていた。ハンは死を意識した。――こんな非力な刃物では死ぬことすらもかなわない。生半可な傷では化け物の驚異的な治癒力で治ってしまうだろう。
「化け物! 化け物! みにくい化け物!」
 差したナイフはぶれて首の皮を切った。真っ赤な血が黒い薔薇に飛び散った。首の脈がどくどくいっている。人間と同じように傷つけばちゃんと痛みを感じることにハンは笑った。すると眩暈がして彼女は薔薇の木にもたれかかって崩れ落ちてしまった。
――ころさないで。
 舌足らずな高い声がくちぐちに聞こえてくる。それはハンの耳に直接語りかけてくるのだった。
――ぼくたちはハンといきているんだ。だからころさないで。
 それは産まれてこられなかった百人の胎児の声であった。
 ふいにハンは『エリザベス』が覆い隠す空を見上げた。そこには広大な夜の闇が広がっている。喪服のようにがんじがらめな空である。見渡しているうちに彼女ははっとする。そのなかにひとすじの光が差し、薔薇の花を一個だけ青く染めていたのだ。それを見て彼女の頬に涙がつたった。
「きれいな青」
 彼女はもういちど青空が見たいと思った。幸せの薔薇『エリザベス』を青く輝かせたいと強く思った。
 それから長い年月が経った。陽光を浴びて青く咲き乱れる薔薇の花に包まれて、ハンはようやく虫食いになっていたピーターのメッセージを知ったのだ。

『イラージェと“私”の子、百人の妊婦よ、安らかに眠れ』

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