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 春の陽気に誘われて小鳥たちが歌うようにさえずるのを聞きながら、老紳士は新聞紙を広げた。丁寧にアイロンがかけられているので、めくる音までぱりっとして気持ちがよい。焼きたてのクロワッサンを待つあいだ、彼は老眼鏡を眼窩にはめて世の中の大事件に目を通した。
――レッガス研究所、全焼……。
 トップ・ニュースは、北世界で一番大きい錬金術組織の不幸な事故であった。年寄りは大変驚いたが、ちょうど朝食室に入ってきた執事の手前取り乱すようなことはしなかった。彼お気に入りの執事の柔和な微笑みをいきなり壊してしまうのは忍びなかったのだ。
 テーブルにティー・カップとソーサーを置くため執事が近づいてくると、老人はあわてて紙面を二、三枚めくった。隣国のフィンカンティエリ侯爵夫人の名を配した豪華客船ピクネシア号がおととい処女航海したらしい。夢のごとく着飾った高貴な乗船客が描かれた煌びやかな挿絵を食い入るように見るふりをして、老人はそっと執事の顔色をうかがった。すると目が合ってしまい、好青年は若葉に滴る露を思わせるエメラルド・グリーンの瞳を横に広げた。
「なにか面白い記事がございましたか? ジョベールさま」
 白髪のジョベール老人はこくりとうなづき、波を分けて走る客船を震える指で示した。
「最新式の、蒸気エンジンだそうだよ」
「ほう、それはすごいですね」
 相槌を打ちながらも完璧な執事は手を休めることがなく、しばらくして――気まずい沈黙が訪れる前に――琥珀色をした淹れたての紅茶がジョベールの前に差し出された。執事特製の調合がなされた、濃いめの目覚まし紅茶である。そのなかに新鮮なミルクと角砂糖を三個入れて銀のスプーンで静かにかきまぜてカフェ・オ・レっぽくしたミルク・ティーをひとくち老紳士は口に含んだ。カップの縁にかけられた髭置きが口髭をせきとめる下に、渋くて甘い紅茶の湯気がこもって口周りをしっとりと濡らした。
「ところでレッガス研究所が全焼した記事はご覧になりましたか?」
 端正な顔立ちを引き立てる香り高い嗅ぎタバコのようなバリトンにジョベールは危うく紅茶をこぼしそうになった。ミルク・ティーにまみれた主人の鼻の下をナプキンで拭いてやりながら、執事はため息をついた。
「私の内縁の妻が無事だと良いのですが」
「きっと無事だよ」
「ありがとうございます」
 ジョベールの言う「無事」にはまったく根拠がなかったが、彼の気持ちが嬉しかった執事は礼を言った。しかし、表情は曇ったままである。老人は息子のように愛している青年の元気がないと、心配になった。
「ひと月くらい休暇をやってもいいが、どうかね。ソーン」
 真面目な執事カーグ・ソーンは聞きかえした。主人は照れ隠しに頬をかきながら、
「おじいさまのご容態を見るよい機会ではないかね? きみはいつも無視をして実家に帰らないだろう」
「あんな手紙、うそに決まっていますから」
 カーグは深みを増したエメラルド・グリーンの瞳に色気を添える銀色の睫毛をしばたたかせた。
「いつまでジャムを塗り続けているのだ、まったく」
 イチゴのジャムを塗りたくってべとべとになったクロワッサンを執事の手からひょいと取り上げ、ちぎったそれをジョベールは自分の口に押し込んだ。カーグは自分の失態に赤くなった。
「うまい」
「ご命令とあらば、休養を取らせていただきます」
「うむ。そうしなさい」
「ご厚意に感謝いたします」
 深々と下げた頭を起こしたカーグが次に考えたのは内縁の妻のことだった。

 ジョベールの親切で広々とした一等車の旅となった。相席した身なりの良い夫婦に恐縮しながら、冷えたベーコンのサンドイッチをひとくちかじった。蒸気機関車の窓から見える緑は、保養地的な人工のものから次第に羊が群れる草原へと変わっていった。
 実家を出て四年になる。学歴がないどころか前科があるカーグを従僕として雇い入れてくれたのは、腕利きの彫板師ジョベールであった。語学に長け、一流のシノワズリ漆器を嗜み、ピアノの腕前はすばらしく、そのうえ淹れる紅茶が抜群に美味しいカーグはすぐジョベールに気に入られてわずか四年で執事へと昇進することができた。だからジョベールは恩人で、彼に一生を捧げようとカーグは誓っていた。
 自分の都合で休暇を取るのを申し訳なく思うが、今の自分には完璧な仕事ができず休暇が必要なのもまた事実であった。彼はひと月のうちに曖昧なハンとの関係に白黒つけるつもりで帰ってきたのだ。
「ただいま」
 カーグが実家に着いたのは昼過ぎだった。ヤギの鳴き声、それから赤ん坊の泣き声がする。このあばら屋は帰ってくるたびに生命が増えて騒がしくなっている気がする。昔は作物がまともに育たない荒れ地だったらしいが、父の代で豚が飼えるようになり姉の代になってようやく美味しいチーズが作れるようになった。生活はいまだ苦しいが、それでも昔に比べたら大分まともになってきたと彼は思う。
 返事がなく、どうやらだれもいないようなので、カーグは自分が使っていた部屋に入った。トランクを床に置いてベッドにくたびれた腰を沈ませると、彼は壁に目をやった。外出用の手袋を脱ぎながら、涙がこみ上げてくる。彼が出ていった部屋はいつ帰ってきてもいいようにそのままの状態にしてあるのだった。
「ハンナ」
 壁には子どもサイズのウエディングドレスがかかっている。ぼろやだがまめに掃除されて小奇麗な部屋のなかで、ウエディングドレスだけが黄ばんで今にも朽ちそうなのだ。たまらず彼はそれにしがみついた。それは彼がハンを想って縫ったドレスだったから。十年前にレッガス研究所へ収容されて以来行方知れずの内縁の妻ハンを彼はずっと忘れられずにいたのだ。
「いつまでも思い出にしがみつきやがって」
 振り向くと、教会に行くときみたいな一張羅を着たツカサが戸口に立っていた。お構いなしにずかずか入ってきた祖父は、ウエディングドレスを気の無い素振りで見やって、
「こんなぼろっきれだけど、捨てたらお前に呪われそうだから捨てられねえんだ」
「確かにこれじゃあみすぼらしいよね」
 ツカサの売り言葉を買う気力の無いカーグはため息をついた。目頭には涙の粒が残っている。
「なんだよ、つれねえなあー」
「元気そうだね」
 カーグは日焼けしているツカサを見てまたため息をついた。たびたび「足を痛めた」だの「食欲がない」だのと書いてあったあの手紙はやはり嘘だったのだ。つまらなさそうにもう一度、ハンが着るはずだったドレスをカーグは見上げた。
「『具合が悪い』とでも言わなけりゃ、お前帰ってこないだろ。俺なんかより偏屈なビュランじじいといるほうが楽しいんだろう?」
「まあね。一か月したら出ていくから」
 思い出したように立ち上がってカーグはトランクを開けたなかから持ってきた児童書を五冊ほど取り出すと、ツカサの手に押し付けた。
「ジョベールさまが手掛けた本だよ。姉さんの子どもたちにあげてよ」
「お仕事熱心だな」
 草花とともに多色刷りの表紙を彩るひょうきんな妖精たち。しかしそれを眺めるツカサは顔を渋らせている。子どもたちに夢を与える彫板師のもとで働くのを誇らしくカーグは思っているのに、祖父にとってなにが不満なのだろう。
「まあ一か月でもいてもらえれば、上等か」
 ひ孫へのプレゼントを大事そうに抱える節くれだった手はまんざらでもなさそうだが、いまいちツカサは煮え切らない。だからといってカーグは執事をやめるわけにはいかない。
「実はな、カーグ。お前に会いたがっているひとがいるんだ」
「僕に?」
「ああ。呼んでくるから、茶の準備をしろ。失礼の無いようにな」
「えっ、今日?」
 小首を傾げたのちに思い当たってカーグは苦笑を浮かべた。
――もしかして……。
 日が暮れ始めて、晩餐の支度をしなくてはとジョベールの執事はぼんやり思った。懐中時計の蓋を開けるとそろそろ約束の時間だった。皿に盛りつけた土産もののレモンタルトを頬杖つきながら眺めていると、ツカサに連れられて待ちびとは来た。しかしそのひとは壁にかかったウエディングドレスをただひとり着こなせる女の子では当然なく、大人の男性であった。緊張しながらカーグは愛想笑いを浮かべた。客人は聖職者のゆったりした服を着ており、ターバン頭で顔がよく分からない。
 見慣れない一張羅がよそよそしいツカサが身を乗り出して紹介するには、
「このおかたは伝道師のフランシスコさまだ。カクタス連邦からはるばるいらしてくださったんだぞ」
 伝道師? 牧師ではなくて? カーグの頭に疑問符が浮かぶが、とりあえず話を聞いてみようではないか。それが縁談話ならば蹴るだけだ。
「初めまして、フランシスコさま」
 内心睨みながらも好意的な表情を作ってカーグは伝道師に握手を求めた。
 するとフランシスコはくちもとに意地悪な笑みを作った。
「お変わりないようですね。かけてもいいですか?」
 胡散臭いし、いけすかない男だとカーグは思った。さっさとお茶を飲ませて帰ってもらおう。
 いすに腰かけたフランシスコは珍しいものでも見るようにカーグの顔を観察しはじめた。思わずカーグは顔を背けた。美しいと言われて幼いころから異性どころか同性の目までひいてきた彼は、フランシスコの視線が親しげで特別なことにすぐ気付いたのだった。居心地が悪い。ひとり台所に立ってカーグは紅茶の用意を始めた。しかし茶葉を量りながら背中の視線が気になって仕方がなく、カーグは思いきってフランシスコにたずねた。すっきりしない腹の底を隠すようにできるだけ微笑みを作りながら。
「お会いするのは初めてだと存じますが、カクタスの伝道師さまが僕になんのご用でしょう」
 するとフランシスコは指を組みながら含んだ笑みでツカサを見る。
「ええ、実はあなたの結婚をお手伝いするように頼まれましてね」
 やっぱり。カーグは祖父を睨みつけた。
「結構だよ。そういうことでしたらお断りします」
 カーグは貧しい家に似つかわしくない立派な茶葉――ツカサの陰謀だ――で淹れた紅茶をツカサとフランシスコの前に、今にも追い出さんばかりに荒っぽく置いた。
「まあ、待てよ。カーグ。落ち着いてくれ」
「そうですよ、カーグさん。冷静に考えてごらんなさい。老い先短いツカサさんにとって、いつまでも結婚しないあなたが心残りなのです。ツカサさんは嘆いておられましたよ。それは貴方を愛しておられるからこそでしょう」
 カーグはきっと顔をあげた。お節介なふたりを交互に見ながら、
「お断りします。僕はだれとも結婚しません。生涯ジョベールさまにお仕えするのです」
 それに対し、フランシスコは不服そうに首を振った。
「本当の気持ちを誤魔化すための口実でしょう? 私にはそれが幸せだと思えません」
 ターバンの陰から覗いた海より深い青色の瞳はすべてを見透かしているようだった。無我夢中でカーグは叫んだ。
「あなたになにが分かるんです!」
 これ以上話をするのは火に油を注ぐようなものだと感じたフランシスコは、結婚式の日取りを言い残して帰っていった。
 ひとりになったカーグはすっかり色褪せてしまったウエディングドレスを見上げた。あれから十年の月日が流れてカーグは三十七歳になってしまった。もう潮時かもしれない。
「ハンナ、きみは僕がほかの女のひとと結婚しても許してくれるかい?」
 ウエディングドレスに顔をうずめたカーグは耳を澄ませるが、ハンの声は聞こえてこないのだった。
「苦難に晒されていた時分、あのとき僕たちはひとつだった。ハンナ、きみは僕のなかで生き続けているのに! 死んだだなんて……信じないよ」
 立てつけの悪い窓を力任せに引き上げて身を乗り出し、カーグは夜空に光る星々を眺めた。
――「死がふたりを分かつまで」。僕にはまだ信じられないよ、ハンナ。きみが天国へ召されただなんて。

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