-2-

 ツカサとフランシスコが勝手に決めてしまった結婚式の朝、正装のフロックコートに身を包んだカーグは因縁のウエディングドレスの下で膝を立て、顔を埋めてうずくまった。
 結婚すれば祖父母も父母も姉夫婦も、ひょっとしたらジョベールさまだって喜んでくれるかもしれない。だけどこのまま結婚するわけにはいかない。結婚相手の女性は気立てが良く可愛らしいひとらしいけど彼女がどんなに優れていようがハンの代わりにはなれないし、このままハンのいない人生を歩んでいってハンがいなくても平気になりやがて忘れていくのがカーグには恐ろしかったのだ。
 約束の時刻になっても新郎が現れないのでいよいよドアは激しく叩かれた。
「じいちゃん、僕は結婚しないよ! だれがなんと言おうが僕にはハンナしかいないんだ!」
 なおも責めるように叩かれるので、カーグは耳を塞いだ。
「カーグ!」
 ドア越しに女性の声がしたが、カーグにはよく聞こえなかった。
「カーグ」
 ぎいと音を立ててドアが開くと、うずくまるカーグの足もとに紺地のドレスのすそがインクをこぼしたみたいに静かに広がった。そこからこげ茶色をしたブーツの丸い爪先がふたつ覗いている。見上げると、花嫁はヴェール越しに彼の上にかぶさっている色褪せた子どもサイズのウエディングドレスを見ていた。
 彼はヴェールに包まれた女性の神聖な姿に耐え切れず、頭を下げた。
「ごめんなさい。あなたとは結婚できません」
「カーグ……」
 頑なにカーグが目をつむったので、花嫁は少しためらってからきびすを巡らせた。
「カーグさん。せっかく綺麗な花嫁を連れてきてあげたのに、貴方は顔も見てあげないんですか」
 いつの間にか部屋に入ってきている伝道師はがっかりして肩をすくめ、ツカサと顔を見合わせている。
「フランシスコさま、折角のご厚意ですが――」
「よいのよ、ザックさん」
 懐かしい花嫁の口調に、カーグの心臓がどくんとした。ころころした鈴のように愛らしい声に彼は目を走らせる。花嫁はターバン頭の伝道師と顔を見合わせている。蝶ネクタイを締めたよそ行きのツカサが優しい目を向ける彼女の顔はヴェールで隠されていておぼろげだった。彼は目を細めた。その頭だけを覆い隠す小さなヴェールはよく見ると古めかしいもので、生成り色のレース地はくたびれていた。――そこにはきっと、見覚えのある刺繍がほどこされているはずだ!
「まさか」
 無我夢中でカーグは駆け寄り、両手でヴェールをめくり上げた。するとつぶらな瞳は満月のように淡く、光を帯びていたのだった。呆然として彼は息を飲んだ。
「きみは……」
 カーグに見つめられた小さな花嫁は口もとにシルクの指を添えて頬を赤らめた。その仕草に彼はいっそう引き付けられる。
 懐かしい花嫁の顔をカーグはまじまじと見つめた。決して美人ではないが温かみがあり、オレンジの白い花と結わえた漆黒の髪が雪のように透き通った肌を引き立てている。あどけない小ぶりの唇はサクランボのように瑞々しく、口を開けば今にも声が聞こえてきそうだった。
「本当に、僕のハンナ――ハン・ヘリオス・ポルラムなのかい?」
 綺麗に巻いた髪をかき分けてカーグの手が花嫁の首筋に触れると、太陽の光を集めたヘリオドールのように明るい瞳が強くきらめいた。彼女は涙をこぼして、頬に触れる彼の手を手繰り寄せ握りしめた。
「ええ」
 ハンの返事を聞くが早いか、カーグは彼女をがばりと抱きしめ離そうとしなかった。しかしカーグの嬉しさとは裏腹に、ウエディングドレスを着たハンは「わたしと結婚したらあなたは不幸になるかもしれないのよ」と神妙な面持ちになる。
「いまはよいかもしれないわ。けれど、これから十年、二十年、五十年経ったとき、わたしたちはきっと夫婦に見られないことでしょう。せいぜい『おじいちゃんと孫』だわ」
 うつむく彼女を抱きしめたまま、彼は首を振った。
「きみはちゃんと歳を取っているじゃないか、ハンナ。いまのきみは、僕には三十一歳にしか見えない」
「うそ」
「うそじゃない」
 それはカーグの本心から出た言葉だった。ハンは確かに変わったのだ。彼女は十年前と変わらず子どもの姿のままだったが、たたずまいが上品であるため大人の淑女に見えた。だから部屋に入ってきたとき、すぐ正体に気がつけなかったのだ。
「ひとがどう思おうが気にしないさ。もし僕たちを見てとやかく言うひとがいるなら、それは上辺ばかり見て本質を見抜けないひとたちなんだから」
 嬉しさと涙が入り交じった顔でカーグが微笑むとハンは首を揺さぶった。
「でも……」
 消え入りそうな声。ふわふわのメレンゲ菓子のようにほろっと崩れそうな花嫁をカーグはしっかりと抱きとめる。十年も待ったのだ。もうこれ以上待ちぼうけを食うのはごめんだった。腕のなかでシフォンのヴェールが衣擦れの音を立てた。相変わらず泣き虫なハンナをカーグは愛おしくかけがえのないものと思うのだった。
 三十一にもなるのに子どものように鼻をすすって、ハンは泣き顔をあげた。瞳のヘリオドールは彼女の身に付けているどんな宝石よりも美しくきらめいていて、それは彼女がこの十年屈辱に耐えながら生き抜いた勲章のようだった。たまらなくなって、なにかを言いかけてやめた半開きの唇にカーグはキスをした。
 ふたりは顔を見合わせた。カーグのなかで見上げるハンはうれしいのにそれを表に出さないようにつとめながらまばたきして、
「わたしは子どもを産めないのよ……」
 そう言って悲しい顔を作り、またうつむいてしまう。すると、
「お前なら血の繋がりを越えて立派な里親、養母になれると思うがな」
 後ろからツカサが分厚く大きな手のひらでハンの頭をぽんぽんと軽く叩いた。その仕草は温かかった。かつてツカサに「化け物」と呼ばれた不老少女はついに彼の家族として認められたのだ。
「カーグ、ハンは俺のひとり息子の忘れ形見だ。幸せにしてやれ」
「分かってるよ、じいちゃん」
 背を向けるツカサにカーグはとびきりの笑顔を見せる。
「わたし、わたし、結婚してよいの?」
「当たり前じゃないか。きみはなんのためにウエディングドレスを着て来たんだ」
「幸せになりたいからよ」
 するとハンはおどおどするのをやめて、強い目でカーグを見た。
「カーグ。わたしのなかには百一人の母親とその胎児が眠っているの。それを知ったとき、わたしは死んでしまおうと思ったわ」
「ハンナ」
 彼女は優しい顔になって胸に手を当てながら続ける。
「でもね、そんなことをしたら彼らの命も無くなってしまうでしょう? 気付いたの。わたしが不幸になれば彼らも不幸になってしまう。だったら、わたしが幸せになって彼らに幸せな光景を見せてあげようって、そう思ったの」
 それはカーグの知らない顔だった。彼は彼女に見とれた。彼女は身も心も美しく成長していたのだ。
「ハン・ヘリオス・ポルラム。貴女はカーグ・ソーンの妻になることを誓いますか?」
 ぽかぽか陽気に温められ、聖職者となった昔馴染の声が室内に響いた。ハンは振り向き、カーグに向き直って顔を真っ赤にした。もどかしいふたりに咳払いをして、入口に立っていたフランシスコことザキルカが歩み寄ってくる。
「まったく。いつまで待たせるんですか。潔く式を挙げてしまいなさい。ふたりの世界を見続けるこちらの身にもなってください」
 そう言って手のひらで顔を覆ったザキルカの後ろから、乳飲み子を抱いたふくよかな女性が顔を出した。その隣からは杖を突いた老婆が、続いてカーグの父親の顔が次々と現れて、主役のふたりは目を丸くする。
「父ちゃん! みんな!」
「よお、ハンナちゃん」
「ジェミンおじさま!」
 ふたりの周りにはいつのまにか笑顔の花々が咲き乱れていた。
「ほら、イーサン。綺麗な花嫁さんだねえ」
「生きてるうちにひ孫の顔が見れそうじゃねえか。なあ、母さん」
「そうねえ」
 五人も十人も入ってきて狭い部屋は一気に騒がしくなり、カーグとハンは少し離れたが手はしっかりと繋がれていた。
「おじちゃん、絵本ありがとう!」
 栗毛色の髪をお下げにした姪っ子がカーグに駆け寄ってきて、前歯の抜けた口もとでにかっと笑った。
「おや、ルイーズじゃないか? しばらく見ないうちに大きくなったねえ」
 腰をかがめて姪っ子の頭を撫でているカーグをハンは微笑ましく見つめている。
「そろそろ落ち着けよ、兄さん」
「レオにドニ!」
 ルイーズの父親ドニといまだ独身者のレオである。ふたりともカーグに似てプラチナブロンドの癖毛であった。ハンは彼らを羨ましそうに見守っていたが、ふたりの片割れ――どっちが出てきたのか分からなくなった――がハンの手を取って彼女を舞台に呼び寄せた。
「兄さんの世話を頼みます、ハンナさん。なにかと大変な兄ですが」
 思わずハンはくすりと噴き出す。
「ドニ!」
「ぶー。レオだよ」
「レオ」
「うそだよお」
「くそう。ふたりとも同じようなヒゲつけやがって!」
 三兄弟のやりとりが面白くてハンはこみあげる笑いを抑えようとくちもとに手を添えるのだった。カーグは顔が真っ赤になった。
「カーグの弟さん、双子なの?」
「みんな勢ぞろいで、恥ずかしいな……」
 親類一同に囲まれたカーグは身寄りのないハンに申し訳ない気持ちで、照れくさそうに頭をかいた。ハンは首を振った。
「ハンナちゃん、よく似合ってるじゃないのー! 隣のそれと!」
 威勢のいい声に振り向けば、今度はカーグの母親であった。カーグが口を開こうとしたそのとき、
「まあ、“お母さま”!」
「おか?」
 自分の母親とハンが娘みたいにはしゃいでいる。黄色い声にカーグがたじろいでいるとハンはくるりと向き直って、
「このドレス、“お母さま”に手伝ってもらって縫ったのよ。普段から使えるようにって濃い色なの」
 喪服より少し明るい、夜明け前の色をしたスカートを広げて見せながら、ハンは弾けるように笑った。それを見てカーグは目を細めた。


Fin.


最後まで読んでくださってありがとうございました! ウェブ拍手などで、ご感想いただけたら嬉しいです。

Return to Top ↑